ハチドリのブラジル・サンパウロ日記

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2008年 06月 18日

日本人ブラジル移民100年の歴史

第一回芥川賞の受賞作となった石川達三の『蒼氓』は、ブラジル移民を扱った物語である。神戸港から旅立つ家族連れはいったん神戸移民収容所に移って、日本での最後の8日間を過ごした。ほとんどは故郷を捨てた農民たち。期待と不安に揺れる思いを抱き、語り合い、やけ気味にふるさとの民謡を唄う。

 <1930年3月8日。神戸港は雨である。…三ノ宮駅から山ノ手に向かう赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく自動車がかけ上がって行く。この道が丘につきあたって行き詰まったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建つている。是が「国立海外移民収容所」である>

 二十四歳の石川は「若気の至り」から、家族移民ならぬ単独移民として、九百五十人の移民団にまじってブラジルに渡った。目にしたその人たちの生活は厳しくも悲しい。「私はこれまでにこんなに巨大な日本の現実を目にしたことはなかった。そしてこの衝撃を、私は書かねばならぬと思った」。


作家石川 達三の文章に象徴されるように、日本の歴史を語るのには「移民」を避けて通ることはできないと思い、私も少しずつ移民の勉強を始めました。

1908年6月18日、第一回目移民781人を乗せた笠戸丸は、ブラジル・サントス港14番埠頭に到着しました。今日で100年という節目を迎えるにあたり、勤勉実直とブラジル人に賞賛された我々の祖先がどのような軌跡を辿り、今日の日系コロニア(社会)を築き上げたのか、自らがまとめた資料をここに掲載させて頂きます。大雑把ですみません。
日本が移民を奨励する理由と背景について
1970年代に至るまで、日本から北米・南米大陸をはじめとする国々へと大規模な移住を促進する政策が存在していたことは、今日、多くの日本人によって忘れられつつある。明治期の近代化は、国内人口に急激な増加をもたらしていたが、1877年の西南戦争以後の経済の大きな混乱によって、地方農村が荒廃すると、人口問題と農村の危機の解決策として、自国民を他国に送出し、現地での就労によって、富を蓄積するよう奨励することを目的とした移民政策が実施されるようになった。1868年にハワイ王国への最初の移民が始まって以降、日本国内の移民会社は増大し、移民促進論が政治的課題として議論されるようになった。しかし、北米を中心に東洋人に対する移民反対論が強まると、多くの人々は、南米を目指すようになる。その最大の受け入れ国は1888年の奴隷制の廃止によって、農業分野における労働力の不足に悩んでいたブラジルであった。
日本移民の導入までの背景 
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「移民の父」と呼ばれた水野龍は、皇国植民会社を設立、1907年11月にサンパウロ州農務長官カーロス・ボテーリョと移民導入の契約を結ぶ。1908年6月18日第1回笠戸丸移民781人を率いてサントス港に上陸した。ブラジルの現地新聞では皆行儀正しい移民と絶賛される。この笠戸丸は、かつてはロシア艦隊の病院船で、日露戦争の時に日本の手に渡ったものである。日本人移住者の多くは、多くの移民船の最終目的地となったサントス港を外港とするブラジル最大の都市であるサンパウロ州周辺のコーヒーなどを生産する農場の雇用農民として農業労働に従事した。ブラジル内陸地での労働は、収穫、収入の面で、政府の支援を受けた移民会社が国内で行っていた広告の謳い文句とは大きくかけ離れたものであり、数年間の貯蓄の後に日本への帰国を目指す「出稼ぎ」を行う予定だった移民たちは食料、住居、医療面で過酷な状況におかれることになった。現在もサンパウロの日本人街、リベルダージを中心とするサンパウロ周辺には日系人が多く住む。
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1920年代に生じた一連の経済危機ー米騒動(1918年)、関東大震災(1923年)、金融恐慌(1927年)、世界大恐慌(1929年)は、日本国内の農村に大きな打撃を与えた。政府は、1925年から、移民の渡航費用を大きく支援し、大規模な移民を奨励した。1908年から1941年までの間に、18万8千人がブラジルへと移民しているが、1925年から1935年までの10年間の間だけでも、13万5千人がブラジルへと送出されている。この時期は、ブラジル日系人たちから「国策移民の時代」と呼ばれている。
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1930-34年まで、毎月移民船が何度も往復し、盛んに移民が受け入れられた。航路は2通りあり、太平洋からパナマ運河を通ってサントス港に入る45日間のコースと、インド洋から南アフリカのケープタウンを経由する60日間のコースがあった。船内では、移民たちを和ませる催し物が開かれ、船内新聞が発行され、初級ポルトガル語を教える学校が開かれた。サントスに上陸すると、移民列車でサンパウロ州立移民収容所へ入り、その後各地のコロノ(殖民集落)へ分かれていった。ブラジルで、日本人コロノ(移民)は、19世紀末にようやく禁止された奴隷に代わる労働力としてみられ、劣悪な労働条件で、最初の3ヶ月はコーヒー農園の草取りをした。下痢やマラリア、赤痢などの病気にやられ落命する人も多かった。朝は鐘の音で起床し、昼食の時間、仕事終了の時間はラッパの音で知らされた。監督が馬で見回った。干し肉を食べたり、小麦粉を団子にしたり、野菜がなかったため雑草を調理したり、コーヒーの芽を番茶代わりにして飲んだ。1920年まではブラジル人経営の所で働いたが、日本人の中には、開拓により農場を持つ者が次第に現れ、1920年頃からは日本人経営の元で働くことも多くなった。
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奥地開拓当初は、周辺の原生林に多くの野生動物や鳥類がいて開拓が困難であった。村の仕事としては、まず日本語学校を建設し、開拓から10年ごとに記念刊行物を発行するなど日本文化を伝えるよう努力した。家の中には、戦前の日本と同じく昭和天皇の写真が飾られ、餅、味噌、醤油、豆腐などが作られた。しかし冠婚葬祭が日本式からブラジル式との混合に変わっていくなど、ブラジルに徐々になじんでいった。移民たちは言葉や習慣に馴染んでいなくとも耕作することで生活することが出来た。しかし次第にブラジル人と共に汗水流し信頼を得る中で、現地に馴染んでくると、砂糖業やサービス業、味噌や醤油の食品工業、旅館、雑貨屋など、商工業経営もするようになった。また金融や貿易、綿などの日本企業が入ってくるようになった。
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ブラジルの都市の発展と共に近郊型農業が創出され、野菜園芸農業がサンパウロ近郊からリオ市などの都市郊外で広まった。じゃがいもから始まり、トマトや蔬菜類、やがて果物や花、養鶏も伸びた。また農協がこれらを足場として成長し、栽培地域が内陸に大きく広がった。サンパウロの卸市場CEASAは南米一の規模となり、ブラジルの採卵、養鶏の70%は日系人の手で行われるようになった。日系人は品種の創出や改良など、農業技術の革新で大きな功績を挙げた。政府の後押しはなく、一人一人の工夫や努力でなされたことに意味がある。広大な土地を持つブラジルでは生産の増加といえば原始林を開いて耕地をふやすことであったが、狭い日本で育った移民たちは、ブラジルに労働集約的な農業をもたらし、野菜や果樹の栽培に養鶏も取り入れた多角農法を発展させた。各国の移民を受け入れコーヒー農業の中心であったサンパウロは、ブラジルで最も早く近代化し、日系人達は1930年ごろから協同組合を組織した。もともと協同組合運動はイギリスから始まり、ドイツ、日本そしてサンパウロへと伝わったものである。
新体制、太平洋戦争、「勝ち組負け組」抗争
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ブラジルへ渡った日本移民たちの中には、1920年代から小作農から自作農になるものも現れ、1910年代以降には、サンパウロ市を中心として都市にも進出していく。1935年ごろから、ナショナリズムの動きが強まるなかで、ブラジルは連合国の側にあり、枢軸国の日本は敵国となったブラジルと日本との外交関係が悪化した。1937年に国家主義者ジェトゥーリオ・ヴァルガス(Getulio Vargas)が大統領に就任し、新体制(Estado Novo)を建設すると、ブラジル政府は日本国政府との国交を断絶、戦時中は日本語新聞の発行が禁止された。真珠湾攻撃が起こった1941年には、日本語学校が閉鎖された。ブラジル国内では家庭外での日本語の使用が禁止されたほか、日本人所有の農場、商店、工場、銀行、病院などの一部が政府により接収された。日本国政府官憲がブラジル国内から撤退すると、日本移民たちは本国との連絡を失い、移民同士の間の情報交換も著しく圧迫された。

この時期の移民たちのおかれた特殊な状況と精神状態は、1945年日本の敗戦以後、愛国団体である臣道聯盟の成員を中心として日本軍の戦勝を信じる「勝ち組」の人々と、日本の敗戦の認識を呼びかける「負け組」の間の分裂、及び一部の過激派による一連の暗殺事件の原因となった。これは日本移民最悪の汚点となってる事件である。しかし、「勝ち組」をブラジル政府が説得して、日本敗戦の事実を認めさせた。これが落ち着くにつれ、移民たちは日本に対する結びつきを次第に希薄化させ、ブラジルを永住の地として考えるようになっていった。
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1950年代半ばより日本政府は、戦後の急激な人口過剰への対策を迫られ、その一環として、外務省移住局、日本海外協会連合を設立し、大規模な移民送り出し政策に乗り出した。その結果、1952年から1973年までの間に約6万人がブラジルへと移民することになった。ブラジルの日系移民コミュニティは、これらの移民の流れの中で新しい構成員を得ながら、発展していった。「我々の祖先は、殆ど誰もがエンシャーダ(enchada 鍬)を手にした」と言われるように、ブラジルにおける日系移民の先駆者たちはそのほとんどが農民であったが、彼らの農業分野での活躍はめざましく、ブラジル経済への重要な貢献を行った。さらに、日系移民とその子孫が独自の労働倫理をもって政治、経済、学術、医療等の分野で顕著な活躍をするようになると、彼らはブラジル社会一般の敬意の対象となった。現在、約140万人にのぼると推定されるれる日系人口は、1億8千600万人(2008年)のブラジル人口においては、1%以下を占めるに過ぎないが、日系移民とその子孫のブラジルにおける存在感は特筆すべきものとなっている。ブラジルはラテンアメリカでもまれにみる親日国でもある。
戦後の移民そして日系ブラジル人の出稼ぎへの流れ  
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サンフランシスコ講和条約締結後の1952年には国交が再開され、海外からの引揚者による増加で失業問題が深刻化していた日本では、1953年から、ブラジルへの移住を再開した。1958年には農業移住がピークに達した。それから後は技術移住が多く、戦後移住者は6万人にも上った。これとならんで、1950年代は、ウジミナスやトヨタなどの大型投資が行われ、60年代の高度成長期には日本企業が多く進出した。1962年までに70社である。日本とブラジルとの関係は、この時期大きく高まった。70年代はブラジルの奇跡と呼ばれ企業の二次進出期でもある。石油ショックが起こり、ブラジルは経済政策を転換し、食料や資源をブラジルに求めた日本はこれに協力、融資した。だが、1980年代初頭、ブラジル経済にひずみが生じ、ちょうどその頃日本は好景気であったため多くの企業が撤退した。1994年には、日系人が育て、ブラジルで指折りの経営規模を誇ったコチア農業協同組合と南米銀行が破綻し、外資に身売りされることになった。これにより農地を放棄せざるを得なくなった日系人も多く、日本への出稼ぎ現象が起こった。これと呼応するように、1990年には日本で定住者の地位が新設され、日系人は日本で比較的容易に労働ができるようになった。2008年には31万人が日本に定住していると言われている。
 
1980年代半ば頃、ブラジル経済の不況にあえいだ日系移民1世や2世たちが就労目的での日本訪問を始めた。1990年に日本の「出入国管理及び難民認定法」の改正に伴って、3世までの海外日系人とその配偶者が「定住ビザ」を得られるようになると、日本での就労を行う移住者が激増した。この流れはかつて日本からブラジルへ渡った人々になぞらえて「デカセギ(dekassegui)」と呼ばれた。現在、日本国内には30万人以上のブラジル国籍者が居住しており、愛知県、静岡県、群馬県の工業地帯を中心に、ポルトガル語話者の集住地域が形成されている。ブラジル日系社会は、家族を中心としてこれらの移住者と強い結びつきを持っており、その子弟の教育支援等が大きな課題となっている。

参考文献:ブラジル日本移民・日系社会史年表
       人文科学研究所編
       移民80年史
       ブラジル日本移民史料館ガイド
       「ブラジルの歴史」佐藤常蔵
       「移民史」半田 知雄ほか

by beijaflorspbr | 2008-06-18 03:23 | 移民&日系人 | Comments(19)
Commented at 2008-06-18 09:27
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2008-06-18 09:36
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by beijaflorspbr at 2008-06-18 13:23
★鍵コメ2008-06-18 09:27さま、2008-06-18 09:36 さま
こちらこそ大変ご無沙汰しております。お元気そうで何より!
「非公開コメント」欄にチェックを入れて頂くと、ブログ主のみ
閲覧可能となりますので、そこに書き込んでくださいね、
どうぞ宜しくお願いいたします。
Commented by すずめ at 2008-06-18 19:51
100年という歴史を、こうやってわかりやすく、簡潔に記事にまとめて頂き、感謝してます!! 今日は、移民100周年ということで、今からサンパウロに出てみようかと思います。思い立ったら吉日☆ まず、先日ハチドリさんと見に行った、BANCO REALに行き、その後は、その時の思いのままに。
えっ!?バイトの方はどうするって?? そうですね、遅れて行くか、休むか…。これも、その時の私の気分で(笑)都合のいいバイトですね(^^; でも、今日は何と言っても特別な日!!何となく街の方へ出てみたいのですよ。途中、ハチドリさんと合流できたらいいなぁ~♪♪
Commented by かしまし at 2008-06-19 09:32
その時、歴史が動いた、を見ました。今朝もこちらのニュースで移民100周年の記念式典の様子が報じられているのを急いで食事しながら見ました。
石川達三さんの作品は何となく「暗い」イメージがあって【偏見でしょうけど】この四半世紀ほど遠ざかっています。『蒼氓』も大昔に(受賞のときに)読んだきりです、が読んでみます。
ハチドリさんとの出会いだけでなくて、私の居住地にたくさんの日系の人が製造業に携わってでかせぎに来ておられますから、ブラジルに関してよそ事ではおれない気持ちが高まっています。

もっとお話ししたいのですが、最近変換機能の不調だった職場のPCがようやくちょっと復帰したので、このままお仕事に。。。のちほどいずれまた。
Commented by ひさ at 2008-06-19 09:55
日本から皇太子さまが式典に出席されたんですね
マスコミの扱いは小さいものですが
ハチドリさんのブログを見て
忘れられていた
私なんかは知らなかったことばかり
ブラジルと日本とのかかわりの一部でしょうが知ることが出来ました
Commented by chilelife at 2008-06-19 12:38
まだまだ先だと思っていた、100周年!
サンパウロのホテルは式典などの関係で混みあっていると聞きました。(Blue Treeは特に。。)


そして、改めて復習させていただいていますが、この資料すご!タイプするのに時間かかったでしょう。。 ハチドリさんのパワーに脱帽するばかりです。
Commented by TOPPO at 2008-06-19 15:05
移民100年祭、放映されました。
勉強は自分の幸せのためにするのだそうですが、間接的には周りの方に役立ちますね。大根とイカげその煮物まねして夕食に・・・・そのうちイタリアパセリの入ったコロッケもまねしようと思っています。
Commented by beijaflorspbr at 2008-06-19 22:30
★すずめちゃんへ
楽しい一日を、そして介添え!?ありがとうね。心強かったです。
歩きすぎて居眠りをしそうになったのはご愛敬、また色々な場所に
出没しましょう!(^◇^)/
Commented by beijaflorspbr at 2008-06-19 22:34
★かしましさんへ
お元気そうで良かった良かった!心配していましたよ。
石川達三の作品は確かに暗いですが、確かな移民史でもあります。
移民の光と影の影の部分を書くことは辛い作業だったかと思います。
そちらで生活されている日系人の方々の努力に思いを馳せて
これからも色々なことを学び、情報を発信できれば…と願っています。
二重投稿は気にしないでね、こちらで削除できますので。
お元気で頑張ってくださいね。
Commented by beijaflorspbr at 2008-06-19 22:37
★ひささんへ
皇太子殿下をお迎えしての大イベントは、今週の土曜日なのです。
二万五千人が参加して、サンボードロモ(カーニバル会場)で
行われ、それが今回のメインイベントとなるようです。
今はブラジル国内をあちこち訪ね歩かれているようです。
私も土曜日は行きますので、レポートをさせて頂きます。
移民をそしてブラジルを身近に感じて頂き、ありがとうございます。
Commented by beijaflorspbr at 2008-06-19 22:40
★chilelifeさんへ
確かに色々な方面の方が来られているようです。
私たちの仲間のガイドTさんも大活躍です。
本当のイベントは今週末ですので、今から楽しみにしているところです。

移民の勉強、ためになりましたか?錆びついた頭を叩きながら頑張って
います。ふふ…頑張ります!


Commented by beijaflorspbr at 2008-06-19 22:43
★Toppoさんへ
移民100年祭の本イベントは今週末に行われます。
サンパウロのサンボードロモで2万5千人が参加して大々的に
行われるので、楽しみにxしています。

北海道の大根はとても美味しいですよね。いいなあ~~♪
こちらも今から義姉へのお土産にコロッケを作ります。頑張ります!
Commented by かしまし at 2008-06-19 22:54
たくさん、持ち帰りの仕事を抱えて、でもハチドリさんの移民史100年考をどうしても精読したくて、ちょっと仕事は横へ置いての時間を持ちました。生のブラジルで日系人社会も体得されているハチドリさんの言葉は重みがあります。これからもどうぞ私たちに語りかけてください!遅まきがながらも私も少しずつ考える土壌を耕していきたいと思います。
さて、この前のところに「その時歴史は動いた」のBGMのことをお書きになられた方がいらっしゃいましたね。
私は谷川俊太郎親子のコンサートに行ったことがあります。俊太郎さんの詩の朗読がピアノに合わせてありました。涙しないわけにはいきませんでした。CDも何枚か出ています。どうぞお聞きになってください。慰めにも癒しにも潤いにも励ましにもなるメッセージだとお勧めしたいと思います。
暫くこちらに顔を出さなかったのでお話したいことが次から次へとあるのですが、時間が許さずとりあえず、ハチドリさんの労作、お骨折りにもう一度敬意を表して。これはもうただのグルメブログではありませんよ!ハチドリさんだからこそ、の渾身の入力に感じ入っております。ありがとうございました!そしてお疲れが出ませんように!
Commented by beijaflorspbr at 2008-06-21 00:10
★かしましさんへ
ご理解頂きありがとうございます。さすが、お友達のお言葉と有難く読ませて
頂きました。こんなことに頑張ってもなかなか分かってもらえないかな?
と弱気にもなりますが、一人でも理解をしてくださる方がいらっしゃれば
頑張りがいがあるというもの、これからもしっかりサポートをしてくださいまし。
お仕事も忙しそうですが、無理しないで、アイスとお菓子でだましだましね!(笑)
Commented at 2008-09-19 00:26
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by beijaflorspbr at 2008-09-20 06:17
★鍵コメ2008-09-19 00:26さまへ
随分前の今年の6月18日に書いた記事を目に留めてくださり、ありがとうございました。とても感動しております。こんな素晴らしいコメントを頂ける(鍵付きではありますが…)なんて、ブログを書いていて本当に良かった、そして移民名簿入力ボランティアを続けていて本当に良かったとつくづく思いました。

おじい様おばあ様が一時期を過ごされた当時のブラジルはどのようなものだったのでしょうね。同じ時期に私の義両親もブラジルに渡っており、辛酸をなめた人生をお聞きするたびに涙なしでは聞けなかった思い出があります。

これからも少しずつ微力ではありますが、戦後の移住者名簿入力のお手伝いをさせて頂きたいと思います。それと同時に、移民関連の勉学をこれからの自らのライフワークとしていきたいと決意しております。貴重なコメントを頂き、ありがとうございました。
Commented by THE GARDEN at 2011-05-20 17:18
はじめまして。今日、私のお店にブラジル在住で日本に一時帰国されているお客様が来店され、お土産にと頂いたコーヒーが中川トミさんの息子さんの農場で取れた豆だと聞き、インターネットで調べているうちにこちらにたどり着きました。恥ずかしながら、移民に関する知識が乏しかったのでこちらのブログが大変勉強になりました。
私たちのおじいちゃん・おばあちゃんにあたる人が、遠く離れたブラジルで生活し、現地の方々にも尊敬されるほどに活躍されたことは同じ日本人として誇りに思いました。
私も一人の人間として、尊敬してもらえる人になれるように頑張ろうと思いました。
Commented by beijaflorspbr at 2011-05-22 21:16
★THE GARDEN さん、初めまして。
お返事が遅くなり、申し訳ありません。
日本人ブラジル移民から103年が経ちました。
その歴史を私たちも受け継ぎ、先祖の名に恥じないような
生き方をしていかないといけないと思います。
これからも宜しくお願いいたします。
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