ハチドリのブラジル・サンパウロ日記

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2018年 08月 12日

あれから33年…

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33年前の夏の暑い日に520名の尊い命を一瞬にして奪ったJAL123便(羽田⇒大阪・伊丹)墜落事故が起こりました。当時、ほんの数日前に奇しくもJAL機でサンパウロに帰ってきた私でしたが、夫の友人たちは「もし(私と家族が)あの事故に遭っていたらと思うと、怖くてなかなか安否確認が出来なかったんだ」という後日談をあちこちから聞きました。当時両親が仙台に住んでいたため、日本国内に居ても航空機での移動を当たり前のように繰り返していました。ですから、私が時期的にたまたまその飛行機に乗っていて犠牲になってもおかしくなかったと思うと到底他人事は思えません。それに事故で犠牲になられた方にも、事故の2週間前に大阪で実際にお会いしています。その方は、ブラジルのお客さまのお見送りに成田空港へ行った帰りに123便に乗って事故に遭ったということでした。搭乗者名簿の中に、その方のお名前を見つけた時は、全身の震えが止まりませんでした。東京ー大阪といえば、我々関西に拠点を持つ者にとっては、あまりにも日常的過ぎて、例え航空機移動とはいえ、まるでタクシーを掴まえるような感覚でしかありません。実際に関西の企業戦士の多くの方々が犠牲になられました。33年経った今も、あの時の悼み、悲しみ、虚しさ、そして航空機に乗る怖さが蘇ってきます。JALは、企業としてあれから「安全への取り組み」と真剣に取り組んでいます。その絶え間ない努力のおかげで、この33年間一度も大きな事故は起こしていません。私が飛行機に乗る時は、「落ちるかもしれない」と覚悟を持って乗るようになったのは、あの大きな事故からかもしれません。私の初フライトは、16歳高校生の時でした。当時寮生活をしていた大阪の高校へ帰寮する私は、大阪へ出張する父と共に、全日空機の鹿児島⇒大阪・伊丹便に搭乗しました。ところが、ちょうど南から北上した台風に遭ってしまい、プロペラ機ということもあり、機体は大揺れに揺れた後、四国の高知にダイバードしたという最悪の初フライトでした。無事着陸して小さな空港ロビーで、震えながら飲んだジュースの美味しかったこと、父が終始励ましてくれ心強かったことなどが懐かしく思い出されます。あれからもうどれほど飛行機に乗って地球をぐるぐる回ったことか!今はすっかり飛行機に乗ることにも慣れてしまいましたが、乗る前にはやはりある程度の覚悟はするようにしています。これからもずっとJALを信頼して乗り続けることは間違いありませんが、この先もずっと安全運航を継続して頂くことが、123便で犠牲になられた520名の尊い命に報いることとなるでしょう。改めてご冥福をお祈りさせて頂きます。

by beijaflorspbr | 2018-08-12 23:01 | 飛行機


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