ハチドリのブラジル・サンパウロ日記

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2017年 01月 16日

大好きなH叔父さん、さようなら

まだ風邪が治らず、寝たり起きたりを繰り返していた頃、兄貴からのメールで、若い頃からお世話になったH叔父の訃報を知りました。H叔父さんは、父の妹の旦那さま。若い頃から豪快で楽しくて、周りを明るく照らし続ける太陽のような人でした。見た目がちょっとその筋の人!?と思われるような叔父でしたが、仕事も良く出来、顔も広くて、一緒に歩いているとあちこちから挨拶されるような人でした。ああ、H叔父さんって人望が厚いんだなあ~と感心しきりでした。叔父さんに特にお世話になったのは、東京で貧乏学生生活を送っていた頃でした。当時池袋にいた叔父さん叔母さんを頼って、お腹を空かせて行くと、いつもたらふくご飯を食べさせてくれ、いくらかのお小遣いも握らせてくれました。不思議なことに、叔父さん叔母さんの初めての子どもが生まれた時も、私が立ち会っていました。一度叔父さんが「おまえに可愛い洋服を買ってやる!」と張り切って洋品店に連れて行って選んでくれた服は、あまりにも派手すぎて到底着ることが出来ませんでした。叔父さん自身がすごく派手で、オウムのようなカラフルなポロシャツを着ていたこともあり、一時「オウムおじさん」とニックネームを付けて呼んでいたこともありました。何年頃だったか、叔母さんが深刻な病気を患って入院した時、病院の送り迎えを担当していた私に、「〇〇子(私の名前)、俺の人生でこんなに悲しかったことはないよ、H子(叔母)に先立たれたら俺は到底生きてはいけないと思う」と初めて弱音を吐く叔父さんの絶望的な姿を目にしました。その後、叔母さんは奇跡的に全快し元気になった頃、元の元気な姿の叔父さんに逆戻りしていました。2013年7月、博多に住んでいる叔父さん夫婦がお墓参りをしに大阪に来られた時、丁度帰国中の兄夫婦と一緒にデパートのちょっとお洒落なお鮨屋さんでご馳走してくださったことがあります。その時に「どうもねえ、深刻な病気が見つかって流石の俺もいつまで生きられるか分からなくなってきた」と珍しく弱気な叔父さんの姿に接しました。それでも、常に明るく楽しそうな叔父さんは、昔と変わらない私の知っている豪快な叔父さんでした。昨年の11月末、我が家で兄貴たちと食事会をしている時に、H叔母さんに電話をしてみると「(叔父さんは)入院しているけど、結構元気で年賀状を出せ、宝くじは買ったかと何かと煩いのよ!」と笑っていました。最後まで叔父さんらしく、きっと口煩くて笑っていたのでしょうね。H叔父さんの葬儀は晩年を過ごした博多で行われましたが、今を時めく有名人からの花輪がズラーっと並んでいたのも、叔父さんの人となりを表しているものと思いました。特にある分野ではかなり有名な叔父さんは、ずっと多くの人から慕われ尊敬されていました。たくさんの人を救ってきたH叔父さん、もうあの濁声は聞けないのですね、そう思うと悲しいけれど、今は痛みや苦しみのない平和な世界へと旅立だれたのだと思います。叔父さんのご冥福を心よりお祈りしています。碌に恩返しも出来ず、申し訳ありませんでした。叔父さんにして頂いた親切を、誰かに還元できるようにいたしますね。叔父さんの人生は実にあっぱれでした!!
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by beijaflorspbr | 2017-01-16 22:00 | 人生


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