ハチドリのブラジル・サンパウロ日記

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2015年 09月 04日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑫お食事会&まとめ

平野植民地のお話を長々と続けてまいりましたが、今日で終わります。私は歴史の専門家でも何でもありませんので、詳しく知らないことが多い中で、自分自身のこれまでの勉強内容と事実を資料と照らし合わせながら書き続けた結果が12項目に及んでしまいました。もっと軽い気持ちでここに立ち寄られた皆さま、すみません。それでもいつかはここに平野の悲劇を書いておかなければならないと思っていましたので、漸く念願が叶いました。

さて、お寺の中での功労者表彰、記念品授与が終わり、ご来賓の祝辞も終わったようです。いよいよ祝賀パーティーに入ったのは、午後2時半少し前のことでした。来賓をメインテーブルとして、その後には平野にお住まいのファミリーの皆さま、そして近隣ノロエステ・リンス・プロミッソン・アラサトゥーバ等からの皆さまが席に着かれました。私たちは、リンスの上塚植民地の重鎮である安永さんファミリーのテーブルに潜り込ませて頂きました。上塚周平さんという方も「移民の父」と呼ばれる偉大な方ですので、次は上塚さんについても個人的に詳しく学びたいと思っています。さてまずはフェスタ会場へ…。こちらは古い会館ですが、今回の記念式典に間に合わせるべく、お隣に立派な会館を増築して大変広くなりました。驚いたのは、エアコンが完備されていたことです。
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すっかり待ちくたびれて駄々をこねる男の子、あまりにも可愛くて写真を撮ってしまいました。…と言うより、このドアが開くまでの待ち時間が長かった!
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漸く会館の中に入ることが出来ました。この時点でバス出発時刻まで40分。
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メインテーブルには総領事や文協会長などが着席されました。
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奥が増築した新会館です。招待客の間を縫って小まめに挨拶に回るカフェランジア市長。さすが政治家は違います。
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そしてカンパイしました。カンパイした途端に花火が打ち上げられ、お祝い気分が一気に盛り上がりました。
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お食事はサラダ、お肉などのビュッフェスタイルでした。
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取り急ぎ、お皿に頂いてきて大急ぎで頂きました。美味しかった!!
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慌ただしいお食事の後は、バスの時間が迫っていたので、慌てて荷物を纏めて平野を出発しました。平野の周辺には現在コーヒー園はなく、サトウキビ畑ばかりだそうです。
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Rodoviarioで待っていると、ほどなくサンパウロ行きのバスが滑り込んできました。午後3時半、我々を乗せたバスは、カフェランジアを時間通りに出発しました。
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座席はこんな感じでフカフカで実に気持ちが良いこと!前夜の寝不足と長時間の立ちっぱなしが祟り、相当疲れていたのか、死ぬほど眠れました。但し、後ろのおばちゃんが声を出して大声で下手な歌を歌い出すまでは…。イヤホンで聴いているうちに思わず歌い出してしまったと思われますが、静かな車内では明らかに迷惑行為でした。おまけに冬休みが終わる最後の週末だったためか、道路が大渋滞し、サンパウロには1時間半遅れの午後11時半に到着。
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この日は家族の家にお泊りをさせてもらったので、本当に助かりました。メトロ駅まで車で迎えに来てくれ、美味しい夕飯も用意してくれました。ありがたい…。前日の夜行バスで目的地に行き、祝賀行事に参加し、とんぼ返りという強行スケジュールでしたが、ギュッと100年間が凝縮したような心地良い時間を過ごさせて頂きました。平野にお住いの皆さまの温かいおもてなしの心をあちこちで感じ、終始幸せな時間を過ごさせて頂きました。碌にお礼も言わずに慌ただしく平野を後にしてしまったことを後悔しております。もし機会がありましたら、今度はお礼がてら平野運平さんのお墓参りもさせて頂けたら、と願っています。今度の行事にお誘いくださったKさんご夫妻に心から感謝いたします。

*平野植民地についての補足
《平野を支えた側近・山下青年について》
山下貞一青年…笠戸丸移民でブラジルに渡り、ファゼンダ・グァタパラに配耕され、当時副支配人だった平野から8日目に現場監督に抜擢されました。その後、尊敬する平野と共に行動を共にし、先発隊として平野植民地に入植しました。山下自身もマラリアを発症するも、九死に一生を得、マラリアで次々と亡くなった入植者の死亡届を一人で書き続けました。その後、同植民地の中心的存在として活躍。日本人会長、組合理事長を務め、1952年65歳で亡くなりました。山下の他にも、植田勘三郎、佐藤勘七らが平野遺志を引き継いで、その後も開拓事業に献身を重ね、大・平野植民地を完成、更に隣接地3,000アルケール(7,500ヘクタール)を増設して第二平野植民地の開拓を完成するなど、平野の遺志は同士によって継承されました。平野植民地25周年を迎えた1940年(昭和15年)には、100家族にまで回復しました。

《横溝一男の記録》
平野運平は背が低くてちょっと目が下がった好感の持てる人だった。30歳に満たない若輩にも拘らず、サンパウロ初の総領事・松村貞雄から支持を得たほど、真面目な芯の通った性格だった。犠牲者続出の中で、平野は狂ったように走り回り、病人を見舞い、遺族を慰め、知った限りの物心両面の援助を乞い、東奔西走した。平野運平は元々通訳としてブラジルに渡航したのであり、移民と言う訳ではなかった。しかし、その悲惨な最期を耳にした時、各地の移民たちは彼こそが自分たちの仲間であったと感動した。

《平野植民地の問題点》
◎無計画な集団地建設
◎無医村だった
◎原始林に入るのに、風土病の備えもしていなかった
◎風土病の危険は熟知していたものの、警戒が甘かったのは、平野の性格的欠陥によるもの

《教訓》
当時の邦人社会は、平野の大惨事によって移民事業を撲滅させることなく、むしろ『大惨事と再建に学ぶ』という受け止め方をした。そこに植民の歴史的位置づけがあろう。

《後説》
平野植民地では何故大量の犠牲者が生まれてしまったか。「マラリア説」「栄養失調説」「(当時流行った)パラチフス説」などがあり、他の病原と気付かずマラリア一辺倒の治療を施した。平野の事件から10数年後にブラジル入りした細江静男医師によると、「人々は悪性マラリアに黄疸を発したのではないかと言うが、自分は森林黄熱病ではないかと思う」と語った。

《最後のまとめ》
現在の平野植民地には12家族21人が残るばかりとなっていますが、平野運平氏の遺志を100年の間変わらぬことなく引き継ぎ、500人ものお客さまを招待して盛大な祝賀パーティーを催されたことに心からの感謝と称賛の言葉をお贈りしたいと思います。これはもう快挙としか言いようがありません。平野の皆さまの笑顔は本当にステキでした。『無償の愛』をところどころに感じることが出来、「日本人で良かった」「日本人ってすごいんだなあ~」純粋にそんな素直な気持ちになることが出来ました。サンパウロ市から長時間かけてでも、平野に行って良かったです。またこれからも、107年間の日本人ブラジル移民の歴史を紐解く作業を地道に続けて行くことが出来るよう、勉強に励みます。義両親の経験した炎天下の中、エンシャーダ(肢の長い鍬)を引きながらのコーヒー農園での厳しい労働で汗水流したお蔭で、現在の安定した暮らしがあると思えば、その心情や労苦に何とか報いたい気持ちが湧きあがってまいります。長々と続けてしまい、読みにくかったことと思いますが、お読み頂きありがとうございました。

【参考文献】
・輝ける碧き空の下で(北杜夫)
・日本移民80年史(ブラジル日本移民80年史編纂委員会)
・百年の水流(外山脩著)
・ブラジル日本移民小史(醍醐麻沙夫)
・ブラジル日本移民百年の軌跡(丸山浩明)
・移民の生活の歴史(半田知雄)
・ブラジルの歴史(佐藤常蔵)


by beijaflorspbr | 2015-09-04 21:22 | 移民&日系人 | Comments(4)
Commented by ぴっち at 2015-09-05 06:13
11回ものシリーズ、ありがとうございました。
ご主人様のご両親のご苦労も思いつつ…綴られていたのですね。
平野植民地のみなさんが、21人で500人あまりの方を迎えて、100周年の記念行事をされたことも
どんなに長いあいだ思いをかけて準備されたことかと、想像します。
テーブルに飾られた鶴や花の「つまみ細工」?浅草で見かけたことがありますが、
もう日本ではほとんど見られない光景です。
参考文献に、醍醐氏の名前があり、あの頃、よくパーティでお見かけした方でした。
そうそう、移民70年のパーティには、私たち夫婦も参列してました。
ハチドリさんと、すれ違っていたのかも?
Commented by ヨモギ at 2015-09-05 14:29
ハチドリさんの熱意と真心溢れるお話に感動いたしました。
部外者の私があれこれ述べるのは僭越と思いますので控えさせていただきますが、平野氏が亡くなった34歳といえば、今の私の長男と同年代です。もし、息子がこのような立場におかれたら?。。。と思うと、胸に迫るものがありました。
移民事業に対して、現地到着以降の日本政府からの応援は無かったのでしょうか?

この歴史は、いつまでも後世に伝わっていくと良いですね!!


Commented by beijaflorspbr at 2015-09-06 11:38
★ぴっちさん、コメントをありがとうございます。
ダラダラと続けてしまって、読みにくかったかと思います。すみません。
はい、義父は母親のお腹にいる時にこちらに来ましたので、2世です。
義母は12歳で家族移民でこちらに渡ってきましたが、12歳以上は
一人前の働き手と数えられましたので、小さい体で頑張るしかなかったそうです。
大変な苦労をされた話を何度もお聞きしました。
子どもの教育のためにサンパウロに出て来て百姓から足を洗い、
他の仕事を始めて軌道に乗せるまでがとても大変だったようですが、
家も2軒建てて、晩年は幸せに暮らしていました。

平野の方々のおもてなしには本当に頭が下がる思いでした。
もう一度お礼奉公!?に行かなくては、なんて思っています。
布で作られた飾りは「つまみ細工」というんですね。
全テーブルに綺麗に飾ってありました。
これまた心のこもった素晴らしい手仕事ですよね。しみじみ拝見させて頂きました。
醍醐さんには、つい先日もお会いしましたよ。
お話するほど親しくないので「ただ見た」という程度なんですけどお元気そうでした。
70周年パーティーの際、夫が重責に着いていたので、私は付録でした(笑)
Commented by beijaflorspbr at 2015-09-06 11:45
★ヨモギさん、コメントをありがとうございます。
労いのお言葉ありがとうございます、とても嬉しいです。
あまりにもダラダラ続け過ぎて、きっと誰も続けて読みたくないよね~
なんて思っておりました。

そうですね、34歳と言えばまだまだ若く、きっと平野運平さんの
ご両親さまもご健在だったことと思います。
親の身になれば、心しめつけられる思いがしますね。

移民事業に関してですが、日本からの渡航の際には、
「拓務省」という部署が移民事業を取り扱っており、
渡航費の援助はあったらしいのですが、移民が自立をするための
補助金のような記載はどこにも見当たらないので、自力で土地を買って
開拓したのではないでしょうか。ここはもう少し勉強してみます。
平野の後に、上塚周平さんが開拓をされたプロミッソン移住地は、
上塚さんのご尽力のお蔭で、日本政府から補助金が出たそうです。
平野さんはまさに孤軍奮闘をして倒れてしまったのかもしれません。
しかしながら、平野では運平さんのことを神の様に崇めておられました。
それできっと報われたのではないでしょうか。
平野の地に立つことが出来て本当に良かったです!
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