ハチドリのブラジル・サンパウロ日記

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2015年 08月 27日

平野植民地100周年祝賀行事参加④平野困難な時代へ…

《相次ぐマラリアの襲来》
平野植民地へ移住した文野勝馬は、ドウラード河の上に杭を立て、小屋掛けをして住み始めました。内陸地にある平野植民地では、川の傍が一番涼しい場所だったからです。やがて雨期に入り、先発隊の蒔いた米が予想以上に伸び、マンジョッカ(こちらで出来るタロイモ)・フェイジョン豆・パウミット(ヤシの芽)などに飽きていた移住者たちは、稲の生育ぶりに希望を膨らませました。その頃から真夏だと言うのに、背筋がゾクゾクしたかと思うと、体が熱くなり滝のように汗が流れるという奇病に罹る人が多くなりました。一番症状が重かった文野夫人は、1916年(大正5年)の正月を迎える直前に息を引き取りました。正月を過ぎると、病気になる人々は益々増え続け、移住者の不安は増す一方でした。その頃、病気の原因がどうやらマレッタ(マラリア)ではないか、ということが分かったものの、奥地である植民地に医者や薬は皆無でした。

《マラリアの犠牲者》
1916年になると、マラリアで亡くなる犠牲者は増える一方でした。犠牲者たちは、最初の頃こそ棺桶に入れられ葬られましたが、次第に柳行李や漬物桶に至るまで棺桶の代用としました。その後、マラリアの薬、キニーネが僅かに送られてきたものの、犠牲者の数は増すばかりでした。

当時の惨状を表す記載が残っています。
『棺を造るのに板もなく人なく、死んだ愛児を柳行李に入れて泣く泣く埋葬した。夫の死骸を妻が背負って墓地に運ぶという悲惨さ』

これらの出来事は、ブラジル移民史上最も悲惨な出来事として今に語り継がれています。
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(1922年当時の平野植民地の区画割の図面が残されています)
《当時の平野運平の心情》
猛威を振るったマラリアも、5月の乾燥期に漸く下火になりましたが、マラリアの犠牲者は80人に及びました。(*犠牲者の数には諸説あり、64人とも言われています)その間も、平野は全地域の測量や地図割り、地主としての支払い交渉、移住者への激励と指導、経営事務などを懸命にこなしていきました。そんな平野も、一日に3人を葬った時は、男泣きに泣いたと言われています。平野自身もマラリアに襲われましたが、大事に至りませんでした。その頃から、苦しみから逃れるため、深酒をするようになったそうです。

漸くマラリアが沈静化し、落ち着きを取り戻したかに見える平野植民地ですが、災難はこれだけでは終わりません。明日に続きます。

★マラリアについて…熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症のこと。マラリア原虫ハマダラカによってを媒介される。マラリアを発症すると、40℃近くの高熱に襲われるものの、比較的短時間で熱は下がる。しかし三日熱マラリアの場合48時間おきに、四日熱マラリアの場合は72時間おきに繰り返し激しい熱に襲われる。脳マラリアの場合は、意識の低下、言語のもつれによる神経症状などの他、黄疸、脾臓肥大、低血糖、肺水腫などの症状が起き、死に至ることもある。


by beijaflorspbr | 2015-08-27 23:33 | 移民&日系人


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