ハチドリのブラジル・サンパウロ日記

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2015年 08月 25日

平野植民地100周年祝賀行事参加②日本人ブラジル移民導入の背景と実施まで

《当時の日本政府が移民政策を奨励する背景と理由》

平野運平さんの生涯を語る前に、当時の社会情勢を語らねばなりません。1877年(明治10年)当時、西南戦争後の経済の混乱により、地方の農村が荒廃しました。人口問題と農村の危機解決策として、自国民を他国へ送出し、現地就労によって富を蓄積することを目的とした「移民政策」が実施されるようになりました。1868年(明治元年)にはハワイ移民が始まり、主にカリフォルニア州を中心とする米国本土にまで広がり多くの人々が海を渡って移民をしました。19世紀以降移民政策は本格化し、第二次世界大戦後もしばらくの間は政府も積極的に関わって実施されました。1893年(明治26年)にグァテマラ移民、1897年(明治30年)に35名がメキシコに渡り、その後も組織的移住が積極的に行われるようになりました。ところが移民会社が増大し、移民政策が積極的に実施されるほど、北米に於ける東洋人排斥による移民受け入れ反対論が増大し、1908年(明治41年)実質北米への移民は認められなくなってしまいました。次の移民先としてブラジルの他、ペルー・アルゼンチン・ボリビア・パラグアイ・チリが選ばれました。南米各国だけではなく、フィリピンへも移民が送出されました。

《日本人ブラジル移民までの背景》

当時のブラジルは、1888年(明治21年)奴隷制度廃止後のコーヒー園の下級労働力として各国移民を受け入れていました。その最大の労働力はイタリア移民でした。ところが、あまりの待遇の悪さに、イタリア本国政府が移民送出禁止令を発令します。その後の働き手として他国移民を模索していたところに、白羽の矢が立ったのが日本人でした。1907年(明治40年)11月皇国植民会社を設立した水野 龍(みずのりょう)が、サンパウロ州農務長官カルロス・ボテーリョと移民導入契約を結びます。1908年(明治40年)6月18日第一回笠戸丸移民781名を率いた水野龍がサンパウロ州サントス港に上陸します。当時の新聞記事によると、日本移民は皆礼儀正しいと絶賛されたそうです。781名の第一回移民は、サンパウロ州周辺のコーヒー農場の期間雇用農民として殖民集落に分かれ、農業に従事しました。

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《平野運平、出生からブラジル渡航まで》

1886年(明治19年)3月23日、士族・棒葉健蔵の次男として静岡県小笠原郡で出生、1906年1月7日、平野家と養子縁組をする。同年3月、掛川中学校を卒業し、東京外国語大学スペイン語科に入学。1908年(明治41年)23歳だった平野は同大学を中退し、水野龍が設立した皇国植民会社の第一回日本人ブラジル移民の通訳の一人として選ばれ、シベリア経由で笠戸丸移民より1か月前にサントス港に到着しました。6月18日、サントス港で第一回笠戸丸移民を迎えました。

《笠戸丸移民の通訳5人男たち》

①加藤 順之助

②嶺 昌

③平野 運平

④大野 基尚

⑤仁平 嵩

いずれも東京外国語大学スペイン語科卒業、または中退した人たちでした。尚、当時同大学にはポルトガル語がなかったため、スペイン語科の学生が選ばれました。

《第一回笠戸丸移民 配耕地》

ドゥンモント

51家族 210名(単独18名)

フロレスタ

24家族 173名(単独3名)

カナアン

24家族 151名(単独1名)

サンマルチンニョ

27家族 101名(単独13名)

グァタパラ

23家族 88名(単独4名)

平野は6月28日、鹿児島18家族・新潟3家族・高知2家族、合計88名を引率してファゼンダ・グァタパラに入りました。

ソブラド

15家族 49名(単独1名)

《厳しい労働条件に苦しむ初期移民たち》

サンパウロ州内陸部にあったコーヒー農園での労働条件は、収穫・収入面で、移民会社の謳い文句とは大きくかけ離れた劣悪なものでした。移民はブラジルでの数年の労働の後、貯蓄をして日本への帰国を目指す出稼ぎを目的としていましたので、その期待を大きく裏切られました。ブラジルと日本との文化や習慣の違い、食習慣や住環境や医療面など、全ての点において過酷な状況下に置かれました。そんな悪条件のもと、平野は大奮闘をするのですが、そのお話は明日に続きます。



by beijaflorspbr | 2015-08-25 23:41 | 移民&日系人


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