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2017年 01月 27日

JALのウルトラ先得で予約してみた

LINEでお得情報が配信されるJALに登録をしてみました。普段めったにお知らせが来ないのに、一昨日「JALのウルトラ先得・スーパー先得(10月28日まで予約可)」という文字が躍っていて、実際に検索してみると・・・まあ何とも安いこと!!実はまだ春の帰国について日程も決めていないのに、先の高校の同窓会には参加することをほぼ決めている私。我々同級生は、不思議なほど物故者を多く出している学年で、冗談じゃなく「生きてて良かったね!」というのをお互いに確認し合う意味合いも込めて2年おきの同窓会を全国レベルで行っているのです。前回は東京・横浜、その前は福岡、その前が広島とほぼ全国区で実施されています。ずっと常連だったTくんが、昨年の5月に亡くなっていることが分かり、同級生一同深い悲しみに暮れたものでした。今しか会えない、この時にしか会えない人たちとの旧交を温める同窓会は、是非とも参加したい行事の一つです。そこで、JALからの貴重な情報に従って該当日の予約を試みてみると、まあ何と!!大阪ー東北の某都市往復が19,000円とな!!普通に予約すると、片道が3万円以上します!しかも、予約が完了してカード情報を入力しようとしたら「お支払いは後でいいよー」という優しさ。しかし、支払期限を過ぎてしまったら「自動的にキャンセル扱いになるよ!」とも釘を刺されています。しょぼん。。。何はともあれ、空路で東北地方の同窓会に参加できそうで嬉しい限りです。・・・いや、その前に同窓会への参加表明をしなくては。日程が決まっていさえすれば、便利なウルトラ先得とスーパー先得。今回は2泊とも宿泊するホテルは決まっているので、ホテル予約はしなくても良いのですが、レールパス亡き後の良い交通手段になること間違いなしです。マイルも貯まるし、フライオンポイントも稼げるしで、今年漸くGCのクリスタルに昇格した私には何とも嬉しいニュースでした。ずっと病気がちで臥せっている日が続いていましたが、これからの楽しみを糧に頑張ろうっと!!どんだけ飛行機が好きなの?と言われても、好きなものを嫌いになることは一生ないでしょうねえ。。。それと、蛇足ですが、いつか伊丹ー札幌行きで失敗した富士山がどっちに見えるか!?のウェブサイトもあるんですねえ~「富士山どっち?」こちらでバッチリ右側の座席(前の広い席)を抑えました!!あー便利。早くその日が来ないかな?その前に・・・ブラジルー日本のチケットの予約購入を済ませなくては…。今度は帰国早々、胆嚢摘出手術も控えているので、憂鬱と言えば憂鬱ですが、後の大きな愉しみを励みにもうひと踏ん張りしようかな?
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by beijaflorspbr | 2017-01-27 19:42 | 飛行機 | Trackback | Comments(4)
2017年 01月 15日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・④最後

JALサンパウロ線の想い出 激動の世界情勢、そしてJAL破たん~サンパウロ線運休までの流れ
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1989年、出入国改正法により、日系三世とその家族は合法的に日本で仕事が出来るようになりました。日本の労働力不足を補うために、たくさんの日系ブラジル人の方々が、海を渡られました。この頃からだったでしょうか。JALの直行便の予約が満席のため、なかなか取れなくなったのは。当時週3便をジャンボ機で飛ばしていたのにも関わらず、毎便満席で飛び立っていました。9.11事件前は、ブラジル人はパスポート番号を事前登録することで、米国のビザが要らないという特別措置が取られていました。ところが、あの2001年9月の同時多発テロ事件以降、ブラジル人にも米国ビザ取得が義務付けられると同時に、ハードルが高くなり、次第に米国ビザ取得が困難なブラジル人は、JALの米国経由を敬遠するようになってきました。その頃から、欧州経由、カナダ経由、中東経由にどんどん日系人が回ってしまい、一時不思議なほど空席が目立っていた時期もありました。2002年にはSARS(重症急性呼吸器症候群)の大流行、2003年イラク戦争勃発2008年には、世界中を揺るがしたリーマンショックで、出稼ぎの方々の大挙引き揚げという最大の逆風が吹き荒れました。中には、日本政府の資金援助で帰国する人たちも大勢いて、その頃のサンパウロ行き待合室の暗い雰囲気は今でもはっきり思い出すことが出来ます。2009年メキシコで新型インフルエンザの大流行もあり、航空機を使って移動すること自体が不安になるような激動の世界規模の事件が次々に勃発する度に、搭乗客が増えたり減ったりして不安定な時期もありました。そうこうしているうちに、母体の日本航空が2010年1月には会社更生法の適応を申請し、破たんに追い込まれました。JAL再生に向けて、金融機関による債権放棄、支援機構からの公的資金注入、採算の悪い大型機の売却、大幅なリストラに加え、不採算路線の切り捨ての中に、私たちが最も必要としていたサンパウロ線が含まれていました。その時の落胆ぶりはこちらに書かせて頂いております。この発表があった時、自分たちも一緒に切り捨てられているような気がして、何とも悲しくて無性に寂しかったことを覚えています。私たち、サンパウロ在住者はいったいどうしたら良いんだろう?途方に暮れました。私たちは黙って手をこまねいていたわけではありません。日系機関が多くの署名運動をしたり、色々な方面で働きかけましたが、現在に至るまで再開には至っておりません。長年当たり前のような存在だったJALの直行便が無くなってからは、良い機会だとあちこち経由して冒険してみました。
※コースをクリックして頂くと、それぞれの搭乗記にリンクできます!

こうして放浪を続けた結果、元の鞘のJAL・ワンワールドを繋ぐルートに返り咲きました。
〇サンパウロ~ニューヨーク(AA)~成田~伊丹(JAL)
〇サンパウロ~ロスアンゼルス(AA)~関西(JAL)

でも…なんか違う。いつもいつも感じる違和感は、昔の利便性にすっかり慣れきってしまったからかもしれませんし、長年親しんだJALとは何故か微妙な違和感を感じ続けてきました。JALの直行便時代の利点を挙げたらきりがありませんが
①荷物は最終目的地までスルー(※現在は違いますよ!)
②ずっと同じ飛行機に乗ることが出来る安心感
③地上・機内全てのスタッフがとても親切
④いざという時の対応に優れている点
⑤JLGCMとしてのステータスが使える
⑥マイルが良く貯まる
等々利点を挙げたらきりがありませんが、今も世界の航空ランキングの上位に挙げられるようなJALは、私たちにとってもどこまでも信頼できる翼に違いありません。
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(グァルーリョス国際空港に到着したばかりのJALのジャンボ機、これが最後の雄姿です)

こういった点から、出来れば再びJALの「鶴丸」の雄姿を、サンパウロ・グァルーリョス空港で観られたら、いつ死んでもいいかな?と思っています。そのうちに、このブログ内で声掛けがありました署名のためのウェブサイトを立ち上げるかもしれませんが、その際には是非ご協力をお願いいたします。サンパウロにお住いの方、そして周辺の都市や他の南米各国にお住いの方、日ー伯間のご出張の多い方、どうか署名にご協力をお願いいたします。長々と独り言ばかりで申し訳ございません。今更ですが、JALサンパウロ線の復活を強く願いつつ、長い長い独り言を終わらせて頂きます。

ずっとこうしたことを書いているうちに、風邪も良くなりつつあり、来週辺りからは外出も出来そうです。暗いトンネルから漸く抜け出せたような良い気分ですが、まだ咳が続いていますので、当分用心をしながら静かに暮らしたいと思っています。お読みいただき(お読みいただいていないかも!?)ありがとうございました。


by beijaflorspbr | 2017-01-15 22:08 | 飛行機 | Trackback | Comments(4)
2017年 01月 14日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・③

JALサンパウロ線の想い出 移民の方々と
日本人移民100周年記念行事の一環として実施された「あしあとプロジェクト」(1908年から100年間にブラジルに渡った方々の乗船名簿をデジタル化した)に4年間ボランティアとして参加させて頂いた際、分かりやすく判別するために、戦前を『移民』戦後を『移住者』としようと決まりましたので、この項に書くのは『移民』された方々です。戦前ブラジルに渡った移民の数は16万人と言われています。戦後移住者が約7万人なので、如何に戦前に一部国策とは言え、家族単位でブラジルに渡って来られた方々が多かったかが分かります。乗船名簿をPCに入力する段階で、如何にたくさんの家族が意を決してブラジルに来られたかがデータを通してはっきりと見えました。戦前の移民の方々のほとんどが奥地にある農村地帯へ入植し、農業に携わりました。そんな皆さまが、漸く日本に帰国することが出来るようになるまでには、どれほどのご苦労があったかと偲ばれました。そんな意味でも、JALの翼は、長年ご苦労された移民の方々にとっての「永遠の夢と憧れ」と言っても過言ではないと思います。何人かの老移民の方々に、インタビューしたと言うわけではありませんが、自然にお話させて頂くうちに、印象に残ったお話を思い出すままに書かせて頂きます。

《70代女性》
たまたまお隣の座席に座ったご年配の女性と、長いフライトの間に世間話をしました。彼女のお話によると、「移住したのは子どもの時、12歳か13歳で学校を止めてブラジルに一家を挙げて移民することになった。両親とたくさんの兄弟がいて、皆誰もが不安だった。実際に入った(入植)したのは、大きなコーヒー園。日本移民だけではなく、ガイジン(他国からの移民)もいた。パトロン(農場主)は、良い人で、私たち子どもには優しくて、良くバーラ(飴)をくれた。12歳以上になると、エンシャーダ(畑を耕すための鍬)を持って、鐘の音と共に大人と共に働きに出なくてはいけないのが辛かった。勉強はしたくても全然できなかったけれど、それだけが残念。苦労してやっと結婚した時に、子どもたちには十分に教育を施したいので、一家挙げて思い切ってサンパウロに出てきた。幸い子どもが成長して、私を故郷に送り出してくれた。移民して初めての訪日(日本人移民の方は良くこの言い方をした)だから、とても楽しみ。故郷には親戚がたくさんいる。ニッポンがどんなに変わっているか、楽しみで仕方がない」

《80代男性》
通路を挟んで話をするようになったおじいちゃんからは、衝撃的な話を聞きました。「戦争が終わったじゃろ、俺たちは日本が負けても、日本政府が船で俺たち日本人移民を迎えに来てくれるという話が奥地で広がって、持っていた土地や家財道具を全部処分してサントス港に集結したんだ。何千何万人がおったじゃろか。でもなあ、何日待ってもニッポンの船なんぞ迎えに来やせん。デマだと分かった時は、皆でオイオイ泣いたもんだ。農作業も辛かったけど、あんなに悲しかったことはなかった。これj本当の話なんだよ」・・・言葉もありませんでした。今のように極端に情報の少ない戦後、しかも情報統制から、日本はもちろん外国のニュースなど全く入らなかった時代に、誰が何故こんな出鱈目なデマを流して、多くの移民の方々を泣かせたのか・・・・。この時ばかりは絶句しました。しかしこの話には続きがあります。(前出のおじいちゃん)「でもなあ、あの時は家族全員で何日も悲嘆して泣いたけど、おsれでもブラジルで生きていかにゃならん。それからは一生懸命汗水流して働いたよ。辛かったけど、百姓は百姓しかでけん。その後畑も買い戻して何とか生きてきたんよ。今はブラジルに来て良かったと思うとる。」お話を聞いているうちに涙が溢れて困りました。

JAL直行便に乗る方々には長い人生がギュッと凝縮しているように思いました。話を伺っているうちに、こちらも一緒に涙したり考えさせられたりし、改めて自分が置かれた立場が如何に恵まれていたのかが分かりました。それと、移民の方々は、ご苦労が長かったせいか、椅子を倒したりひじ掛けに肘をかけたり姿勢を崩したりせず、ピンと背筋を伸ばして座っておられました。私がお節介で「椅子が倒れますよ、楽ですよ!」と言って倒してあげようと思ったのですが、「このままで大丈夫!」と仰っていました。成田空港に飛行機が近付くと、静かに涙を流す移民の方も多くおられました。いつもいつもこのようにドラマチックな旅が繰り広げられていました。今度はどんな方と出会えるのだろう?そんなことも楽しみなJALサンパウロ直行便でした。
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by beijaflorspbr | 2017-01-14 22:15 | 飛行機 | Trackback
2017年 01月 13日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・②

前の文章随分長いですねえ。でも書き始めてしまったので続けます。

④JALサンパウロ線の想い出 両親と
ある時は子どもを連れて、ある時は両親に付き添って日本とブラジルを往復したこともありました。今良く思い出すのが、亡き両親のことです。子どもや孫会いたさに約30時間もかけて来てくれた両親、家が変わるごとに見に来てくれました。若い頃はエコノミークラスで頑張って来てくれましたが、年老いた頃は流石に「しんどいから良いクラスにして…」と言って弱音を吐くようになりました。その頃から、私も両親に合わせてアップグレード券などを使ってお付き合いさせてもらいました。流石にビジネスクラスの乗り心地とサービスは抜群に良くて、「慣れたら怖いなあ~」などと自分を律していました。父はお酒が大好きな人だったので、乗ったらまずお酒、食事の時もお替り、そして…エンドレスに飲むので、しっかり見張っておく必要があり、疲れました。時には「お客さま、機内では酔いが回りやすいので、大丈夫ですか?」などとやんわり言われてしまい、ちょっとは反省するもののまた飲んで・・・の繰り返し。飲むと当然トイレに行く回数も増えますので、フラフラする父を支えながらトイレへ…という修行のような時間を過ごしているうちに目的地に到着しました。でも機内の父は本当に可愛くて、CAさんたちからも親切にしてもらっていました。人を惹きつける魅力のある父でした。母はというと、どこまでも父に従う従順な妻でしたが、あまり父がやんちゃをすると怖い顔で睨み「お父さん、良い加減にしないと。。。」と一喝していました。母は旅の前に、子どもや孫の喜びそうなものをたくさん買って、スーツケースをぎゅうぎゅうにするほど、家族思いでした。今となってはあのおおらかさ、懐の深さは並みの人ではなかったな、と思います。とにかく愛情深くて素晴らしい両親に恵まれました。一度、二人っきりで帰国しなくてはいけなくなった時、「ねえねえ、〇〇ちゃん(私の名前)日本でさあ、松茸ごはん食べたくない?」と秋の味覚に釣られ、結局付き添って帰国することにしました。二人での長旅に自信が持てなかったようで、その時の帰国ほど両親の愛を感じたことはありませんでした。日本滞在期間はたった1週間でしたが、毎日生活の立ち上げや買い物や家の整理整頓に没頭し、両親からとても感謝されました。もうあんな時間は二度とないと思うと、たまらなく愛しくて懐かしくて泣きそうな自分がいます。JALの旅と両親がリンクした時、そこにはいつも二人の笑顔が浮かんでくるのでした。ありがとう、おとうさん、おかあさん。
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by beijaflorspbr | 2017-01-13 23:56 | 飛行機 | Trackback
2017年 01月 12日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・①

前の項、独り言にしてはかなり長かったかなあ?と反省しきり。興味のない方にとっては苦痛な長文ですね。いつまで続くのかは分かりませんが、自分自身も体調が未だ思わしくなく、当分外出禁止ですので、もうちょっと呟きは続きそうです。では、2010年9月まで元気に成田とサンパウロの空を飛んでいたJALサンパウロ直行便についての思い出話を家族の想い出と共に語らせて頂きます。

③JALサンパウロ線 サンパウロ→ニューヨークまで
とにかく間にトランジットが入るとしても、合計28時間超えのロングフライトです。タイムテーブルとしては、深夜にサンパウロ・グァルーリョス空港を出発し、夜間飛行を経てニューヨークJFK空港に翌朝到着。約3時間のトランジットを経て同じ飛行機に再搭乗をしました。ニューヨークに到着した搭乗客が一斉に降機し、入国審査場を通り再出国手続きや買い物などをしている間に、サンパウロから一生懸命飛んできた飛行機は、給油や食事の搭載、機材メンテナンスや清掃を行います。サンパウロで預けた大きな手荷物は、もちろんピックアップせず、預けっぱなしですので、この点が一番利点だったように思います。乗客の把握や飛行機のメンテナンスは、次の搭乗時刻までにきっちりと完璧に行われました。この何十年もの間大きく遅れたのは燃料タンクの故障、ただ1回だけでした。今でも定時発着率の高い日本航空は、昔からかなり優秀で安心感がありました。特に親族の誰かの体調不良で緊急に日本に駆け付けなくてはいけない時などには、本当に助かりました。父の場合は、亡くなってから知らせが来たため、予めパリ在住だった兄が帰国をして葬儀の日程を決めました。それは私の帰国を待って通夜・告別式を行うと言うものだったため、時間が遅れると予定が全て狂ってしまいます。そんな点では、JALの直行便が大いに助けになってくれました。ついでに言うと、父の逝去の報に伴い、直ぐに旅行代理店に駆け付けると、即座に帰国のための座席を抑えてくださいました。1995年の阪神淡路大震災の際も、親族が被災されたご家族が飛び乗って帰国したのもこのJALの飛行機でした。緊急時には適切かつ誠実に対応してくださるのも、信頼の翼ならではと思いました。もちろん私の乗った便は、予定通り成田に到着し、大阪までもう一度飛んで迎えの車で無事に父との対面を果たすことが出来ました。私と同じような事情を抱えた人は山ほどおられ、「〇〇さんのお父様が急変されたらしい」とか「××さんのお母様が息を引き取られたそうよ」といって飛行機に飛び乗ったという話を良く聞きました。

さて、話が大きく逸れてしまいました。サンパウロ線に乗る時の話に戻ります。サンパウロ線は長旅でしたから、ある程度の「装備=手荷物」も必要ですので、ほとんどの人が大荷物を担いで乗り込んできます。ブラジル人や日系人は枕まで持ちこむ人がいるのは既に見慣れた光景ですが…。これに対しては、JALの職員が飛行機とロビーとを結ぶボーディングブリッジにたくさん待機していて、搭乗客の荷物に目を光らせて大量に荷物を持ち込もうとする人のチェックをしていました。今私自身が苦しんでいる、アメリカン航空などで、異常に手荷物の多い搭乗客が荷物収納棚を全て独占するという悲劇は、JAL直行便ではほぼ起こりませんでした。たまに常識外れの大きなキャリーを運び込もうとする人には、入り口で客室乗務員さんが「そのお荷物は棚に収納しきれませんので、こちらでお預かりさせて頂きます」と根気良く説明していました。また各座席にもちゃんと乗務員の方が待機して、必要とあらば荷物の収納もお手伝いしてくださいました。我が家は基本的に一人1個ずつ、私はハンドキャリー1個に小さめの肩掛けバッグ1個たまにお菓子の入った紙袋、子どもたちはそれぞれリュックサック1個ずつにお菓子やおもちゃを詰め放題にして…(笑)全ての搭乗客が座席に納まると、何度も何度も地上職員が搭乗客の数を数えに来ます。その間に、子ども連れの人にはおもちゃや絵本が配られます。機内には、日本の新聞や週刊誌の他、ブラジルのVejaなどの雑誌やO Estado de Sao Pauloなどのブラジルの新聞も搭載されていました。今はエコノミークラスに新聞サービスはありませんが、当時はエコノミークラスでも新聞や雑誌などを配ってくださいました。飛行機が飛び立つ頃には、子どもも親もくたびれ果てて、うっかりすると爆睡中に離陸してしまった、などということは何度もありました。ゴーゴーという煩いエンジン音と、食事の用意をするカチャカチャした音で目が覚める始末。案外子どもたちの方が元気でテーブルを出して食事を待っていた、なんていうこともありましたっけ。食事は子どもが小さいうちはチャイルドミールをお願いしていましたが、そのうち拘らなくなり大人と同じものを好き嫌いなく食べるようになりました。お腹が空いた時のために、必ず非常食は常備していました。子どもたちが大きくなってからも、その癖が抜けず、食べ物を荷物に入れる癖は長い間続いたように思います。あの頃が一番楽しいフライトでした。小さい子どもをただの一度も泣かせることなく、24時間を乗り切ったというのは、私のささやかな自慢です。そうこうしても、サンパウロからニューヨークは約9時間しかかからないので、あっという間です。ぐっすり眠って起きたらニューヨークだったといった感じでしょうか。JALでは到着2時間半前に機内の電気が一斉に点灯して、起こされた後、朝食が配られます。子どもたちは、この朝食も美味しそうに良く食べてくれました。大人の真似をしてトマトジュースをお願いしてはゴクゴク美味しそうに飲んでいました。着陸までにパジャマを洋服に着替えて、いつでも降機できるように用意します。トイレにはなるべく並ばないように、食事が終わったか終わらないかくらいで済ませるようにしていました。身体が小さいので、隙間を上手に抜けてトイレまで走って行っていました。大きなジャンボ機は、子どもたちの運動場のように感じることもありました。楽しそうに一回りして帰って来た子どの楽しそうな顔を今でもはっきりと思い出すことが出来ます。子どもたちも、何度も往復していううちに要領を掴み、上手に行動できるようになってきました。そんな姿を見て、次第に大人になっていくプロセスも見守ることが出来ました。一人で旅をするようになってからは、気が楽な分、大きな忘れ物をしたような気持ちになったものです。こんなことを書いていると、もう大きくなった子どもたちに無性に会いたくなって仕方がありません。私はそれだけ子どもに依存する母親だったのかもしれません。面倒を見ると言いながら、見られていたのかな?なんて今ではそう疑っています(笑)機内でCAさんたちに一番可愛がられ人気があったのは、末っ子のムスコでした。私がそろそろ休みたいなと思うと、スーッとCAさん来られて「しばらく〇〇くんをお預かりさせて頂いても宜しいですか?」と連れて行ってくださいました。30分でも随分熟睡できたものでした。たくさんの親切な方々に支えられたフライトこそ、このサンパウロ線だったのでした。
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今日も思い切り長くなってしまいましたので、また明日。


by beijaflorspbr | 2017-01-12 23:10 | 飛行機 | Trackback
2017年 01月 11日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・プロローグ

最近あるグループに入れて頂きました。私が大好きなJALの飛行機やその他JALに関する情報を交換し合うグループで、非公開というのも気に入っています。まずは管理人さんに承認して頂き、挨拶がてら書き込みをさせて頂いているうちに、今は運休となったJALサンパウロ線に関して思い出したことがたくさんありましたので、これも備忘録として加えさせて頂こうかと思います。飛行機に興味のない方すみません。

①JALサンパウロ線の経路や使用機材について
1978年くらいから試験的にJALが南米と日本を結び始めたと記憶しているのですが、最初はDC10という小型機でした。座席は3-3の配列で、今のグァルーリョス国際空港ではなく、サンパウロ市からは100キロ離れたカンピーナス市のヴィラコッポス国際空港から発着していました。この飛行機に乗ろうと思うと、かなり早くから自宅を出発して夜中に帰宅すると言う大変な苦労を伴うものでした。1985年頃には、最新鋭のジャンボ機Boeing747-400が投入されるようになり、一気に大量輸送が実現しました。サンパウロ線が運休した2010年9月まではこのジャンボ機を変わらず飛ばし続けていました。途中リオのガレオン(=アントニオカルロスジョビン)国際空港を発着地としていた時期もあったように記憶しています。サンパウロからは市内専用のコンゴニャス空港から小型機でリオのガレオン空港まで飛び、JALの大型機に乗り換えて米国経由で帰国していました。最終的には、サンパウロ・グァルーリョス空港ーニューヨークJFK空港ー成田国際空港が定着していました。米国の経由地は、かなり長い間、ロスアンゼルス国際空港でしたので、私も2-3回はトランジットでロスに降り立ったこともありました。9.11事件からは、毎回米国への入国と通関義務が生じ、入国管理場の混雑の影響でしばしば出発便に遅延が発生したこともありました。9.11事件より随分前には、同じ飛行機で最終目的地まで向かうためか、貴重品以外は全部機内に置いていって良いことになっており、子連れの私にはとても楽でした。但し手荷物は全て棚へ収納しなくてはいけませんでしたが、今ではとても信じられない夢のようなお話です。トランジットカードを受け取って、専用の待合室で待つのも結構楽しかった記憶があります。小さな売店で子どもたちが欲しがるものを色々買ってあげたり、亀の置物で遊んだり、あまり広くないトランジットエリアを走り回ったりしているうちに、待ち時間はあっと言う間に過ぎました。空港の関係で、一時はサーカス小屋のようなトランジットスペースで待ったこともありました。あれはLAXだったかなあ?トランジットの際、一度息子が遊びに夢中でお漏らしをしてしまい、着替えを機内に置き忘れたため、大きなTシャツを買って着せた覚えがあります。

②JALサンパウロ線に乗る人たち
時代の流れとともに、搭乗客も変化を遂げたように思いますが、中心となったのは、日本企業の駐在員とその家族と出張者、移民や移住でブラジルに来られた方々と家族、そして私たちのような現地在住者とその家族、日系人とその家族で、それに加え少数のブラジル人や、アジア系の方々も乗っておられました。1989年の出入国管理法改正により、一気に出稼ぎの流れが勢いを増し、出稼ぎを目的として、片道チケットで乗る人たちが多くなったのも大変革でした。空港にスーツケースを持って行き、空席待ちをかけて待機している人も長い行列を作っていましたが、大体は満席で毎便飛び立っていた記憶があります。後に、米国の入国管理が義務付けられた後の日系人は、ビザ取得の難しい米国経由を避け、欧州や中東経由で日本へ移動することが多くなったようです。また在住者の日本在住の家族や親戚の呼び寄せも多く、我が家も呼び寄せチケットで両親にブラジルまで来てもらっていました。私が最高人数で乗った数は両親・私・子ども3人の6名でしたが、3人の子どもたちが二重国籍なので、パスポートが合計9冊という添乗員並みのボリュームで大変でした。この直行便には、ブラジル国内だけではなく、他の南米各国からの乗り継ぎ客も大変多く、いつかアルゼンチン在住の知人3人が真後ろの席に座っていた時は、お互いに笑ってしまいました。誰もが長い間故郷である日本を想い、日本に憧れて、「乗ったそこから日本」を体感したくて日本航空を選んで乗ったのだと思います。当時は、子どもたちの学校の関係もあり、今のように季節を選んで帰国すると言うことは許されませんでしたし、他にもVARIGブラジル航空など直行便を飛ばしている会社もありましたので、選択肢は色々でした。「今度は何で帰るの?」が我々の挨拶代わりでしたが、当時我が家もVARIGや旅行代理店に伝手があったため、たまには浮気をしてVARIGの格安航空券で帰国したこともありました。チェックインの際に、良く子どもの同級生や家族に会ったり、知り合いや友達にも会いました。さながら学校がそのまま移動してきたような騒ぎとなることもありました。当然春・夏・冬の休み前が大変混み合い、その時期に座席を抑えるのがとても難しくなってしまいました。ブラジルはサッカー大国ですから、たまにはブラジルの有名サッカー選手が団体で乗っていて、運が良ければそれに遭遇することもありました。当時サッカー少年だった息子が、選手の輪の中に入って喜んでいたので「なんていう名前の選手?」と訊くと「知らない、でもテレビでは観たことある」なんていい加減な答え方をしていましたっけ。トヨタカップに行くサンパウロFCの選手たちでしたが、名前を知らないとは!!本当にたまにですが、エコノミーからビジネスクラスにインボラアップグレードをしてくださることもありました。見送りの家族が「どうだった?」と訊かれるまでもなく、顔で分かろうと言うものです。その他、サンパウロ線は長距離のため、たくさんマイルも貯まるので、マイルやアップグレード券を使って、この最長路線では結構贅沢をさせてもらった想い出がありました。家族と過ごした貴重な時間を今目を瞑っても鮮明に思い出すことが出来ます。昔は喫煙席も設けられており、父が愛煙家だったため、それが嫌でたまらなかったものです。一つ思い出すともう一つ…想い出の引き出しがどれだけあるかはわかりませんが、しばらく語らせてくださいませ。
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・・・昔の思い出話をするとキリがありませんが、またこの続きは明日書かせて頂きます。年を取ったのかなあ?昔が懐かしい。。。


by beijaflorspbr | 2017-01-11 23:38 | 飛行機 | Trackback | Comments(14)
2016年 12月 18日

2016年冬大阪~ロスアンゼルス~サンパウロ搭乗記②JAL60便

今回のブラジルへ帰る旅の第一行程の始まりは、JAL60便からスタートしました。午後5時過ぎに優先搭乗が始まりました。関西国際空港ーロスアンゼルス国際空港へは、約10時間弱のフライトです。西海岸なので、思ったより速い!
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エコノミー席一番乗り(笑)機内はかなりの空席がありましたが、いつものように一番前の非常口席を抑えておきました。お隣には既に男性が乗っておられましたが、後に空いていた真ん中通路側の空席へ移ってくださったので、道中2席を独占して気楽な旅を楽しむことが出来ました。お気遣いありがとうございます。
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この席は、忙しそうに働かれている客室乗務員の動きが良く見えるので好きです。本当に休む暇なく動いておられる姿には感動すら覚えます。それと、トイレが近いので、並ぶことはまずありません(笑)
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離陸後、平行飛行に入ってすぐに飲み物サービスが始まりました。ここで話題の「君の名は」を観始めます。
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機内食第一回目、夕食です。2択のうち和食の豚カツ卵とじを選びました。主食はまだしも、いつも通り副菜がパッとしません(-"-)JALは良い航空会社なのに、機内食では明らかにANAに負けています。もう少し工夫をして頂けないかといつも思います。
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デザートは安定のハーゲンダッツ(カスタード・プディング味)
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食後に岡田くんの「永遠のゼロ」を観ながら号泣したり、嵐くんの新しいアルバムを聴いたりして機内での時間をゆったりと楽しみました。
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3-4時間くらい眠ってしまったようです。快適に眠った後は、朝食に当たる機内食が配られました。ずっと眠っていて、目が覚めた時に現れたのは「くまモン」寝呆けているかと思いました。2013年から提供されているシリーズの第3弾が12月から再提供されています。
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焼きおにぎり、太平燕(タイピーエン)、サラダ&カスタードケーキの機内食はとても新鮮でした。
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AIRくまモンの食べ方については、詳細な説明書付きです。何段階かに分かれて楽しめるのは良い試みだと思いました。太平燕は、熊本で食べたことがあるので、懐かしい味がしました。濃厚で美味しいお汁は胃に優しい。
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くまモンのカスタードケーキも緑茶とともに大変美味しく頂きました。熊本地震の後、義援金をしただけで何も出来ていないな~と反省しきり。
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JAL60便は順調に米国に向けて飛行を続けています。
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米国ロスアンゼルス国際空港に到着したのは、午前10時半、フライト時間は9時間55分でした。
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あっという間のフライトでした。いつものように、快適なフライトでしたが、辛い修行はここから始まりました。。。続きます。

by beijaflorspbr | 2016-12-18 21:09 | 飛行機 | Trackback
2016年 12月 17日

2016年冬大阪~ロスアンゼルス~サンパウロ搭乗記①自宅から出発まで

サンパウロに戻ってきて速いもので、6日が経ちました。今回の旅ほど色々な面で辛かったことはありません。「色々な面で」というのは、後ほど詳しく述べますが、まずはいつも通り順を追ってご報告をさせて頂きます。飽きてしまっているかもしれませんが、このブログは備忘録も兼ねているので、我慢してください(笑)今回も預け入れ荷物は3個口、機内持ち込みのキャリーを入れて4個口で出発です。関空まで送ってくれるのは、元同僚のHK.いつも忙しいのに、ありがとう!
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大阪南部の自宅から、関西国際空港まではあっという間に着いてしまいました。
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幸い良いお天気、でも連絡橋はいつも通り結構横風で揺れる揺れる…(-"-)
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駐車場は満車に次ぐ満車で、5階まで上がって漸く後ろの方に場所を見つけました。まだフライトまではたっぷり時間があったので、荷物を車に置いたまま、先に食事をすることにしました。
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子どもたちにお店を選ばせたら、こんな普通の和定食屋さんを選びました。お替り自由というのが、魅力だそうで、案の定2回ほどお替りをしました。私の分は、全部息子に食べさせました。
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食事後、HKとムスコに荷物を取りに行ってもらい、私は娘の診療所用の重たい雑誌や、お土産の和菓子などを購入。それをスーツケースの隙間に詰め、預け入れましたが、31キロ、29キロ、16キロもありました。チェックインカウンターで、ブラジル永住ビザについて色々質問を受けたため、時間を取られました。つまり、私の永住ビザが2014年12月で切れているため、咎められたのですが、ブラジルでは60歳以上の高齢者は、60歳を超えた時点で(永住)身分証明書の更新を死ぬまでしなくて良い、という決まり事を知らなかった職員から、色々質問を受けたのでした。この件については、既に日本航空側に質問状を出し、誠意ある回答を頂いています。正しい情報共有を徹底してほしい旨お願いすると、既にビザ更新に関する該当項目は記載されているとのことで、何らかの手違いがあったのだと思います。さて、私の乗る飛行機出発までまだまだ時間がありましたが、この辺で家族と別れて出国することにしました。子どもたちと言ってももう大人なので、自分たちのペースがすっかり出来あがっています。親の出番が少なくなっているのは寂しいけれど、あまり思い残すこともありません。
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関西空港は、近年近隣の国の方々が大挙して訪れており、出国の際にはいつもこんな長蛇の列に並ばないといけません。関空は、優先レーンは設けられていないようです。ここでふと思いました。「PCやタブレット、液体を持っている方は別に検査が必要です!」と叫んでいるのは日本語のみ。外国人に通じているのかどうか、疑問でした。日本のあちこちでこうした場面が見られ、この先インバウンドで外国人を大挙誘致と言いながらも、実は国際化は全く進んでいないのではないかと思いました。
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どうしても、免税店でブラジルの家族の顔が目に浮かんでお土産を追加で買ってしまいました。この免税店の品揃えがまた素晴らしくて、買い過ぎてしまいます、(;´д`)トホホ・・・。
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制限区域内にもがんこ寿司があるのには驚きました。
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お買い物も無事に終えたので、ウィングシャトルで先端駅へと移動をしましょう。
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本当に良いお天気!まるで祝福されているような良い気分。。。
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フライトまで2時間半ほど時間があったので、サクラ・ラウンジのお世話になります。
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リニューアルされたサクラ・ラウンジは広々としてとても綺麗でした。
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隅っこに座り、カレーライスと松茸ごはんを頂いて、ビールで乾杯!
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ラウンジでゆっくり身支度をしていると、あっという間に搭乗30分前になりました。ラウンジを出ると、搭乗ゲートが目の前だったので、そのまま立ったままじっと案内を待っていました。いや、本当はワクワクしながらフライトの時間を過ごしました(笑)
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飛行機好きの血が騒ぎます。続きます・・・。

by beijaflorspbr | 2016-12-17 23:10 | 飛行機 | Trackback | Comments(2)
2016年 12月 11日

くまもんがこんなところに!

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AIRくまもん、機内で美味しく頂きました。さあ、今どこでしょうか?なんてのんびり言っている場合ではありません。既にトランジットで4時間以上待ったのに、更に4時間半遅れるそうです。どうなっているのやら。。。それにしても、日本・米国・ブラジルの時差が複雑で連絡が取りにくいことを発見しました。新たなアナウンスの時間がどうか正確なものでありますように!もうちょっと頑張ります!と言うか、ラウンジに逆戻りします、トホホ…。


by beijaflorspbr | 2016-12-11 00:20 | 飛行機 | Trackback
2016年 11月 11日

2016年秋ブラジル・サンパウロ→日本への旅⑥最終工程の国内線JAL133便HND-ITM

横浜から羽田空港に着いたのは、午後5時過ぎのことでした。フライトまで約1時間半。
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沈む夕陽に映える飛行機、私の大好きな風景で、しばし見惚れてしまいました。
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ラウンジでビールを1杯頂きました。自分へのご褒美はこれだけ。良く頑張ったと思うものの、世間にはもっともっと頑張っている人がいますものね。夕刻のフライトは、皆疲れた顔をしています。
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私の乗るフライトの時間が迫ってきました。20分前にはラウンジを出て…
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優先搭乗の列の最後尾に並びました。
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クラスJの一番後ろ、つまり普通席の一番前の少し広い座席の通路側を抑えておきました。
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1時間ちょっとで、無事に大阪・伊丹空港に到着しました。伊丹からはシャトルバスで地元駅まで。そこからは、息子と合流して帰宅しました。家に帰ると、パトちゃんがすでに到着していたスーツケースのほとんどを綺麗に片付けておいてくれました。狭い家なので、早く片付けないと居場所がありません。しばらくの日本、満喫いたします。長々と続けたブラジル→日本への旅行記をこれで終わります。お読み頂き、ありがとうございました。

by beijaflorspbr | 2016-11-11 22:27 | 飛行機 | Trackback