ハチドリのブラジル・サンパウロ(時々日本)日記

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2017年 03月 11日

3.11、検索は応援になる

あの恐ろしかった東日本大震災の日から、今日で6年目です。Yahoo Japanでは、今年も『3.11、検索は応援になる』キャンペーンを行っています。一人1回検索すると、10円が東北復興に携わる団体へ寄付されます。あの日を忘れないためにも、東北の皆さまに心を寄せたいと思っています。
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震災当日、東京に居て帰宅難民になった私に、優しい救助の手を差し伸べてくださったSさんご夫妻に心からお礼を申し上げます。忘れた頃にやってくる災害に私たちはどう備えるのかを、教えてくれた震災でした。あの日の恐ろしかった経験や、不安だった気持ちをずっと忘れず、これからももしもの時に備えられたら、と思っています。サンパウロでは昨今の大雨による洪水や落雷で何人かの方が命を落としました。天災は人間の力ではどうしようもありませんが、どの地に居ても緊張感を持って暮らしたいと決意しているところです。
『最後だと分かっていたなら・・・』
今日を後悔しない生き方・・・大切だとしみじみ思いました。


by beijaflorspbr | 2017-03-11 07:37 | その他 | Trackback
2016年 03月 11日

あの日から5年(東日本大震災)

今日3月11日、午後2時46分(ブラジル時間午前2時46分)、私は一人で東日本大震災で犠牲になられた2万人余の御霊に静かに手を合わせていた…。あれから5年、もう5年。まだまだ完全復興には程遠い被災地に思いを馳せつつ、テレビで流れる式典をそっと見守る。久しぶりに日本国歌を歌うと、じーんとくるものがあった。忘れもしない5年前のあの日、私は東京に居た。突然の激しい揺れに、冷静にならなければと思えば思うほど「一体どうしたら良いんだろう?」と途方に暮れたのも事実。携帯電話は持っていたものの、こちらから一切発信できなかった。携帯電話も混線していたのか、私のD社の携帯電話がS社の呼び出し表示に変わったりして、首を傾げたものだ。下手に携帯電話を操作をすると、バッテリーばかり減ってしまうので、電話連絡を取ることは早々に諦めた(外出先に充電器は持ち合わせていなかった)。唯一の頼みである公衆電話の前も長蛇の列。何もかも不安でたまらない夜だった。たまたま思いついた幼馴染のMちゃんが近くに住んでいることを思い出して、そこへ逃げ込んで危うく帰宅難民にならずに済む。但し、広めの和室に布団を敷いて頂き、たまたま集まった3人は見ず知らずの人ばかり。リビングでは一晩中、震災の報道が続く…。それは時間を経れば経るほど被害状況が拡大していく恐怖。街を歩いて逃げていた時は、映像を目にすることもなかったものの、Mちゃん家族と一緒にずっとテレビを観ているだけで恐怖感が我が身を襲った。真夜中には電話の受信状況が改善されたのか、親しい友人やサンパウロの自宅から電話やメールが次々に入って来た。結局絶え間なく襲う余震でほとんど寝られなかったので、午前5時少し前に友人宅を出て、動き始めた電車で、泊まらせて頂いていた友人宅に向かい、シャワーをお借りし、荷物を持って出た。そこから、知人宅に寄って羽田空港に向かい、無事帰阪することができた。自分の人生で一番長い一日だったように思う。大阪に落ち着いてからは、東北に住む色々な人に関する不安な情報が次々に入ってきた。とても心配だった陸前高田の同級生は、九死に一生を得て奇跡的に助かった。今だからこそ、改めて彼女の体験談を伝えたい。 

『私と娘は大震災があった後、家の方づけをしていました。あちこちから物が落ち、壊れたものもあったため、それらを片付けることが急務のように思われたからです。地震と津波がどうしても結びつかず、まさかその後に大津波がくるなどとは夢にも思いませんでした。災害緊急放送は家の中に篭っていたせいか、全く聞こえませんでした。ただ周りが妙に静かだったことは良く覚えています。そうこうしているうちに、川の向こうから真黒い壁が迫って来るのが見えました。「もしかしたら津波かな?」慌てて娘と車に乗りました。その瞬間に大津波に流されてしまいました。流されつつもふと気が付くと車が一瞬ふわっと水の中から浮き上がりました。既に車の中に水が大量に入り込んできたため、常備している非常用のハンマー(彼女はもしものことがあった場合にと常に携帯していたそうです)でガラスを叩き割り、二人で車から脱出した時に、導かれるように1本の電信柱が目に入り、無我夢中でそれに飛び移りました。電信柱を上ったところに、大きな工場の屋根があり、そこに乗り移ってただただ津波が引くのを待ちました。一番辛かったのが厳しい寒さと車から出た時に負った全身の傷の痛みでした。寒いのになかなか血が止まらないのには参りました。その後津波が引き、救助隊の方たちが助けに来てくれた時は、安堵のあまり足も体も硬直して動かず、なかなか梯子で下に降りることが出来ませんでした。その夜は、被災を逃れた方の家に避難し、暖かい部屋で一晩過ごしました。一連のことから、自分はいかに運が良かったかということを思い知らされました。まず津波が来た時に、自宅裏の山の裾野に沿って流されたこと(もし海側に連れていかれたら絶望的だったかも)、車内にハンマーを常備していたこと、流され車から脱出した先に電信柱があったこと、その先にも大きな工場の屋根があったこと、いち早く助け出されたこと・・・。』
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今この最後まで生きることを諦めなかった勇敢な友人は、震災後もスタッフと共にボランティア活動に精を出していた。震災後、同じ岩手県でも内陸に家を建て、元気に仕事に励んでいる。「ハチドリありがとう、私は生きてるよ!もう一度もらった命、どう生きようか、楽しみ」と震災直後にメールをくれた時は泣きに泣いた。。。但し、彼女の弟夫婦は残念ながら津波の犠牲に遭ってしまった。彼女の家の周辺の人たちもほぼ全滅と訊く。むごいことだ!被災地の皆さまのご苦労を思うと、適切な言葉も見つからないが、私たちは決してこの大震災の悲劇を忘れないことと思う。出来れば、これからもどんどん東北が元気になっていくよう、微力でも協力していきたい。

Yahoo Japanでは今年も「3.11、検索は応援になる
キャンペーンをやっています。
検索ワードを入力して、東北を応援しましょう!!

震災で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。


by beijaflorspbr | 2016-03-11 22:39 | その他 | Trackback
2013年 03月 11日

東北を想う・・・

3.11に思うこと&被災地の方々への応援メッセージ!

あの日、私は東京にいました。震度5強という生まれて初めての激しい揺れにいよいよこの世の終わりかと思いました。グラグラ揺れる中、お隣にいらした86歳の元気なおじいちゃまと手を繋ぎ、お話をしながら心を落ち着かせていました。おじいちゃまは「日本はな、政治家がグラグラ揺れているからこうやって地面も揺れるんだよ」と。おじいちゃまの安全を確認後、お別れしをした後大きな余震が再び東京の地面を揺らしました。上野のデパート脇にある小規模広場でひたすら揺れの治まるのをひとり心細く待ちました。電話は通じないし、何もニュースが入らない中、防災センターからのお知らせで「東北地方で大きな地震がありました」との第一報が入りました。「ああ、東北が震源地なんだ。。。それにしても遠く離れたこの地東京でこんなに揺れるとはただ事ではないな」と思いました。同時に大阪はどうなったんだろう?とその時点ではただただ情報が入らないことに苛立ちを覚えていました。

それからは無我夢中で当初の目的地である御徒町の職人さんの工房を目指しました。道中、色々な会社やビルからヘルメットを被って避難する大勢の人々を目撃しました。近くにいた仲の良さそうなご夫婦が「ねえ、お父さん。家のガスの元栓切っていないんだけど大丈夫かしら?心配だわ・・・」「とにかく急いで帰ろうよ!」と。しかし電車は微動だにせず、何時間も止まったままでした。職人さんに荷物を預け、取りあえず近所のコンビニで手当たり次第に食料品を買いました。食パン、菓子パン、チーズにカップラーメンなどなど。お腹が空くと益々不安になります。結局はこの私の調達した食料品が、一晩工房で過ごした職人さんを始め5人分の貴重な食料となったそうです。

その後私は至近距離にある知り合いの家を目指しました。ビルの8階に住む彼女を訪ねると電気も点いているし鍵も開いているのに誰もいません。何度か声を掛けてみたものの、家の中に入る気にはとてもなれず延々階段を下りて工房へと引き返しました。諦めきれずにもう一度今度は職人さんに付いて行って頂き、再度8階まで…。そうすると下からMちゃんの賑やかな声が聞こえてきました。何と、あまりの激しい揺れに恐ろしくなって一時避難をしていたそうです。その晩は見ず知らずの女性3人でそのまま泊めて頂き、暖かい食事に大福まで頂いてテレビに流れる恐ろしい映像を震えながら見つめていました。朝まで余震はずっと続き、8階の部屋は本当に良く揺れました。やっと寝たと思ったら余震、起きては寝てまた余震と。その間何度も何度も携帯のメールを受信するバイブが鳴り響きまた起きるという繰り返し。こちらからの発信は全く出来ない状況が家族(当時大阪、アメリカ、ブラジルと点在していた)や友だちを益々不安にさせたようでした。何もかもが異常で緊迫感の連続で、不安と哀しみの底に沈むような暗澹たる一日でした。

翌朝、ほとんど眠れないままMちゃんに、前夜までお泊りをさせて頂いていたOさんのお宅に荷物を取りに帰らないといけないからと告げ、お礼を言って一晩お世話になったビルの8階を後にしました。お友達のお宅に着いた午前6時には、ご主人さまと二人で壊れたガラスを片付けているところでした。暖かく美味しい朝食を頂き、シャワーを浴びてサッパリした後、お礼を言ってOさんご家族に見送られつつお宅を後にしました。その日の午前中に、大井町でお仕事をした後、正午には銀座でお友達とランチを予約していました。後のランチはもちろんキャンセルをしたものの、大井町のお客さまは「いつでも来られる時に来てね」と優しく仰ってくださったので、急いで大井町に向かいました。ところが、度重なる余震で、渋谷からの山手線は「安全確認」と言って電車が全く動いてくれません。結局満員電車に揺られ12時半に大井町のお客さまのお宅に到着しました。Nさんは、その前夜にご主人さまをお迎えに行って帰宅が明け方の4時だったとか。渋滞に巻き込まれ大変な一日を過ごされたようでした。

用事を済ませた後、大井町から急ぎ羽田空港に向かいました。午後7時過ぎの伊丹空港行きを予約してあり、かなり時間はあったもののラウンジでゆっくり待てばいいか、思ったからでした。JALカウンターに行くと、「お客さまの搭乗便を早くさせて頂いてもよろしいですか」と「もちろんOKです。できればなるべく早く大阪に戻りたいです」というと3時間も早い4時の便に変更してくださいました。元は特割1という変更のできないチケットでしたが、緊急事態とのことで早く乗せてもらった時はさすがにホッとしました。搭乗口で待っている時に、もう一度大きな余震がありました。航空機の中に入り、羽田を離陸した時には何故か涙がこぼれて仕方がありませんでした。あまりの衝撃と壊滅的な被害を出したこの大震災と津波のあった東北に思いを馳せ、その時は不安で不安でたまりませんでした。

東北方面は、父が長年赴任しており、友人知人の方もたくさんおられます。震災後、行方不明だった方々の消息が次々に分かり、陸前高田の同級生のHも奇跡的に助かったと聞き、絶望の中に希望を見いだしたものでした。このままではいけない、何かしなくては…遠く離れたこのブラジル・サンパウロの地で「ブラジルを知る会」の仲間と共に立ち上がりました。2011年、2012年、2013年と連続3年「東日本大震災復興応援バザー」をサンパウロの地で開催し、多くの賛同者を得てバザーは大成功しました。どんなに地理的距離があろうと、私たちはいつも東北の皆さまとともにあります。出来れば継続して復興のお手伝いが出来ればと強く願っています。一緒に頑張りましょう!

今回の震災、津波で犠牲になられた多くの方々のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌

by beijaflorspbr | 2013-03-11 02:25 | 日本 | Trackback
2011年 09月 11日

震災から半年

あの未曾有の大震災から今日で半年が経つ。2011年3月11日、午後2時46分私が立っていた上野御徒町の地面は大揺れに揺れた。老舗Mデパートのがっちりした大理石の壁もグラグラ揺れていた。動揺を隠せない百貨店の店員たち。両手を大きく広げ、自分たちの商品を守ろうとしていた。食品売り場からは大量の人が我先にと地上に上がってきた。高齢者が杖を突いて必死で階段を登る姿が痛ましかった。店員もパニックになっていたのか、特に大声での誘導はなかった。外に出てみると車も人もその場で凍りついたように止まり、信号も点滅していた。何があったんだろう?何が起こったのか良く分からないままに、家族や友人に電話をしたけれど全く通じない。外出先なので、テレビで確認するということもままならず、何度もくる余震から身を守ろうと広場に移動しそこでしばらくじっとしていた。脇に居た中年のご夫婦が「どうしよう・・・ガスの元栓締めていないよ。〇〇(多分ペット)はどうしているんだろう?早く帰りたい、早く帰らなきゃ」などという会話が耳に入る。私の子どものいる大阪は大丈夫なのか?そのうちに街の広報から大声で「宮城沖を震源とする大地震・・・」というのが聞こえてくる。不安だった、そして寒かった。余震は何度も何度も東京を襲う。

あの日から半年も経つのだ。一向に復興計画は見えない中で、被災者の方々はどうされていらっしゃるのだろう?親戚のNちゃんのお兄様ご夫妻は、東松島でご自宅の二階から救助され危ういところで助かり、今は避難所生活をされている。陸前高田市で津波から九死に一生を得た同級生のHも再生にむかって頑張っている。彼女の場合は、多くの従業員の生活も守らなければいけないからそれは大変だったことだろう。8月末、津波で流され長い間行方不明だったHの弟さんの奥さんのご遺体がやっとあがったそうだ。それを訊いたHの言葉「弟より(妻が)先に見つかってよかった。先に弟が見つかって、(妻が)1人で海に残されたらかわいそうだったから。弟は地元だからもっと海で遊んでいたいんだと思う。」この言葉には泣いた。Hだって弟さんが早くあがってくれることを強く望んでいるはずなのに・・・。まだ見つからぬHの弟さんが一日も早く海から見つかり、彼を待つご家族と対面できるよう祈ろう。陸前高田は今回の震災で多くの犠牲者を出した悲しい地だ。H自身も震災後、自分が助かってからは避難所の炊き出しを手伝いながらも毎日弟さん夫婦を探し回ったそうだ。遺体確認する時に、多くの知人を見てショックをうけたそうだ。地獄のような苦しみを味わったH、是非会って思い切り褒めてあげたい。「良く助かってくれたね、良く頑張ったね」って。H、生きていてくれてありがとう。最後まで諦めない勇気を私たちに教えてくれてありがとう。再会が楽しみだよ。
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改めて犠牲者の方々のご冥福をお祈りいたします。


by beijaflorspbr | 2011-09-11 22:44 | ニュース | Trackback
2011年 06月 11日

震災・津波・原発事故から3ヶ月目


とても正視できない世にも恐ろしい動画。こんな悲しくて辛くて救いようのない自然災害が美しい街を、活気溢れる漁港を、かけがえのない大切な人々を、家を、店を、仕事を、思い出を一瞬のうちに奪い去ってしまった。黒い波が何もかもを容赦なく呑み込んだ。「止めてくれ~」の絶叫がどこまでも哀しい・・・。2011年3月11日は私たち日本国民にとって喪失の日だった。今も見つからない数多くの津波の犠牲者の方々。ご家族のためにも早く見つかって欲しい。私たちはこの日、目の前で起こった悲劇を決して忘れてはいけないと思う。皆で力を合わせて息の長い支援をずっとずっと続けていきたい。そのためには何が出来るんだろう?何をすれば良いのだろう?まずは犠牲になられた方々のために祈ろう!

by beijaflorspbr | 2011-06-11 04:02 | 日本 | Trackback
2011年 06月 07日

「神様のバス=Onibus de Deus」日本テレビドキュメンタリーより


ただただ感動!震災で夢破れた夫婦、命からがら助かって心細い避難所生活を送っておられた時に斎藤さんの運転する「神様のバス」が目の前に。海の見える美しい場所に家を建て、幸せに暮らしていた一家も夫と妻子が別れ別れになってしまった。最後まで繋いだ手があまりにも悲しい。「女川ありがとう~」の声が被災地の空にこだまする。津波はどれほどの人の幸せを奪ったら気が済むのだろう。

私たちが被災者の方々に出来ることはまだまだたくさん残されているのかもしれない・・・。自分の不幸を投げ打ってブラジル人被災者を支援し続ける斎藤さんを見習っていきたいと思った。それにしても、ブラジル政府もなかなかやるものだ。被災者全員全額政府負担でブラジル国民を母国に帰すとは・・・。

by beijaflorspbr | 2011-06-07 04:44 | その他 | Trackback
2011年 05月 05日

義援金を総領事館に届けに行く

日曜日に行ったブックフェアの売上金及び義援金を「ブラジルを知る会」の代表であるSさんと一緒に届けに行くことになり、会計担当の私は大金をお預かりしていました。ところが、今日水曜日は我が家の車はRodizioと言って、輪番制で午前7時ー10時、午後5時ー8時のラッシュ時はCentroに入れない規制のかかる日でした。そこで5時半に起床し、サンドウィッチを作って少しだけ空が明るくなるやすぐに自宅を出発。6時15分過ぎでこの混みよう!
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サンパウロは本当に車が多くなりました。しかし側道を通ると少しは走りやすくなります。サンパウロでは道を知らないといつまでも渋滞の波に揉まれることになります。この道はMoema のAvenida Jurpis
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大好きなIbirapuera公園脇のRepublica do Libano
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そろそろ太陽が出そうな6時40分にお友達のSさんのお宅Paraisoに到着しました。セーフ!7時を過ぎると罰金を科されるからです。
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彼女がシャワーを浴びている間、ボーっとしてNHKの子ども番組なんぞを見て、朝食。
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二人で機関銃トークをしていると、時間を忘れそうに。領事館は午前9時からオープンしますので、その時間に行きました。下の受付で身分証明書を提示し、目的は「Doação(寄付)」、所属は?「Particular(個人)」と言うと名札をくれます。3階に行き、窓口に行って、入り口のベルをチンと鳴らすと受付の若い女性職員の方が出てきました。Sさんと「まさか総領事が出てきてお手渡しなんてことはないよね!」と笑いました。皆で頑張って集めた札束を下のスペースからお渡しします。ガラスが邪魔になって何だか寄付をしているという実感が沸きません。予め用意されている用紙に、「名前ーブラジルを知る会」「住所ーSさんの住所を書く」「日付」「金額」を書き入れるようになっています。領事館の職員が金額を数えるため、少し待たされました。私が何度も何度も確認をしたので間違いはないと思います。やっと確認が取れて寄付完了!さすがにホッとしました。治安の悪い国での現金の扱いには本当に気を使います。やっと責任を果たせて安堵しました。
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皆さまのご厚志は、今回
R$ 10,841,00も集まりました。
ブラジル中央銀行の自動計算機に掛けると、
¥545,321でした。
4月28日までにサンパウロ総領事館に集まっている義援金は、何と
R$1.118.339,55(56.254.504円)だそうです。この中にはもちろん我々の集めた545,321円は入っていません。世界最大の日系人社会サンパウロの応援パワーが、より早く被災地の皆さまへ届くよう祈るばかりです。

ご協力を頂いた皆さま、
本当にありがとうございました!


その後、今回のフェアの宣伝をしてくださった日系の新聞社2社にお礼の報告をしに行きました。まずはニッケイ新聞
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サンパウロ新聞にもまいりました。
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風は冷たいのに日差しがきつくて、汗をかきかきの訪問です。これでやっと一区切り。次のフェアはいつやるのかはまた会の皆さんと相談します。次回の開催を楽しみになさってください。出来るだけ息の長い支援をしていきたいと思っております。

by beijaflorspbr | 2011-05-05 10:41 | サンパウロ生活情報 | Trackback | Comments(2)
2011年 05月 02日

「ブラジルを知る会」ブックフェア当日(5月1日日記)

昨日、無事に「東日本大震災応援ブックフェア」を終えることができました。本提供にご協力を頂いた皆さま、お買い上げ及び義援金にご賛同を頂いた多くの皆さまに心からお礼を申し上げます。おかげ様で大きな収益を得ることができました。公式発表がまだなされていませんので、具体的な金額をここで発表するわけにはいきませんが、後ほどサンパウロ総領事館を通して日本赤十字社への寄付が済み次第、きちんとご報告をさせて頂きます。

今日からもう5月・・・早いものです。と感慨にふける暇もなく、前夜休むのが遅かったのにも関わらず、午前5時に突然目覚めてしまいました。日本から戻って半月、未だ時差ぼけ状態なのは何故?(笑)
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今日の朝一番の作業はご飯を5合炊くこと、冷たい麦茶を作ること(前日、熱々のほうじ茶を持参して失敗した=肉体労働には冷たいものが一番)、温野菜のサラダを作ること、作り置きしていた漬物を容器に入れること等などをやっているとあっという間に6時半に…。急いでサンドウィッチ&コーヒーをトリオさんに作ってもらい、しっかりプロポリスも飲んで自宅を出発したのは7時25分。日曜日で空いている道路は本当に気持ち良くスイスイ走れますが、今サンパウロ市内はあちこちにカメラが設置されているので要注意です。
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それでもブックフェア会場のParaisoまでは30分もかかりませんでした。既にたくさんの仲間が到着して作業を始めています。抜かりなきよう、最終チェック&係分担や打ち合わせをしました。今日のユニフォームは上下黒、エプロンは何年か前のブックフェアで作ったものです。
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本の仕分準備も終わり、準備が整いました。俄か本屋さん、開店準備OKです。
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開始は午前9時予定、しかし30分以上前から会場の外に長い行列ができてしまいましたので、15分早く開けることにしました。その後お客さまは途切れることなくどんどん入り、山のような本を持った方々が会計の行列に並びました。こちらに来て思ったのですが、海外にいると活字に飢えます。今でこそインターネットの恩恵でいくらでも自由に活字を目にすることができますが、私が嫁いだ35年前は本が読みたくて読みたくて家にある本も2回3回と繰り返し読み、それでも読むものが無くなった時は、お薬やお菓子の説明書まで細かく読んでいたものでした。日本に帰った時も、トランクの半分は本でとても重くて持ちきれない分は船便で送ったりもしていました。とにかく今回は被災された方々のお力になれるよう、頑張りましょう。
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開始2時間が忙しくてとっても大変でした。人に揉まれ続け、人いきれで狭い会場がムンムンし、息苦しくなった頃遂に扇風機が作動!少しホッとしました。売れて空いたスペースにどんどん本を入れる作業を何十回も何百回も繰り返しました。私は会計担当でしたが、しっかりした若い仲間たちが役割分担をこなしてくださったので、お任せで遊軍に回りました。「五木寛之はどこですか?」「軽く読めるサスペンスは?」「時代劇は?」「雑誌は?」「辞書は?」「宗教関係の本は?」「お料理の本はないの?」「Cade Manga?(マンガはどこ)」「100歳のおばあちゃんが楽しめるロマンス物(●^o^●)」など要望は色々です。ああん、もう忙しいわ!S女史も玉の汗^^;私は滝汗?でも本当にこうして足を運んで頂き、お買い上げを頂けるのはとても有り難いことです。本を買ってくださった方々の喜びとなり、支えとなり結果的にはチャリティーにも繋がる。企画した私たちには肉体的な負荷が相当かかりましたが、こんなに喜んでくださる皆さまの様子を間近に拝見するのは大きな励みであり喜びです。
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途中で懐かしい方とお会いしました。サンパウロ日本人学校で教員をされていた、息子ボンの小学校2年生の担任、武内先生です。優しい先生は75歳になられたそうです。先生いつまでもお元気でね!
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この他、ボンの同級生のD君にも会いました。何と10年ぶりくらい?KO大を出て、就職し休暇で実家のあるサンパウロに帰ってきているのだとか。素朴な感じが何とも可愛くて昔のまんま…。さて、会場を巡回していると、どうも気になるこのおじいちゃん。既に1時間は経っているのでは?リストを片手に一生懸命本を選んでおられます。既に多くの本を選んで、透明の袋に入れられています。
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おじいちゃんのリストはアカサタナの順に綺麗に整理して書かれていました!(@_@;)すごい達筆、素晴らしいです! 
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結局、何十冊もお買い上げ頂き、ニコニコ笑顔で帰って行かれました。こんな光景を見るとやはり「やって良かった!」と思いました。さて無我夢中で本を並べ直しているともうお昼少し前、重労働でお腹も空きました。この会でこうしたイベントをするときに必ず登場をするのが代表S女史のカレーライス。と言うわけで私もご飯を炊いて持って行ったわけです。皆で頂くカレーは殊のほか美味しく感じられました。Sさん、いつもありがとうね。この日の朝、体調を崩して心配しましたがいつも元気なSさんに戻り少しホッとしました。
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結局3時半までお客さまは途切れることなく続きました。ある常連のおばあちゃん「あんたたちのやる古本市は良いものが出ると評判よ、1回に持てる量は限られているからまたすぐにやってね!」「はぁ・・・(--〆)」次に出来るのはいつのことやら。。。と言うわけで午後3時半過ぎから片づけ及び会計の〆をします。若い方が多いせいか、皆テキパキ良く動きますわ。あっという間に綺麗に片付きました。会場を提供してくださった三和学院の皆さまに心からお礼を申し上げます。
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で、余った古本をどこに置くか・・・。これ大問題です。三和学院にこのまま置いてもらうことは絶対にできませんので、取りあえず我が家が預かることに。代表から打診があった時に「いいよ!」と二つ返事で引き受けてしまったものの「今から運んでいい?」と言われた時にはちょっとビックリ!ビックリしないよう家にいるトリオさんに電話をして「たくさんの車と人と本が行くけどビックリしないでね」と連絡。「あ、そう・・・ところでハムとチーズがないんだけど買ってきて!」「買えません(;一_一)」ことの重大さに全然気付いていないのんびり休日モードのトリオさん^^;三和学院から3台(うち1台は小型トラック)+2台の5台で残った図書を我が家に運び込みました。後は人海作戦。それぞれの車に乗ってきた20人が一斉に地下倉庫に運びこみます。私は連日の労働でぎっくり腰寸前なので運ぶのは遠慮させてもらいました。
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まさに数は力なり、30分ほどであっという間に搬入終了!
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せっかくなので、お茶を召し上がって頂きました。初めて我が家に来られた方も多かったのに、こんな形で来て頂くことになるなんて…。「いつもブログを拝見しているので、初めて来た気がしないわ」と何人かの方に言われました。ハハハ…。今度はおうちごはんをゆっくり召し上がりにいらしてくださいね。
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お帰りは車4台。ぎゅうぎゅう詰めでした(笑)で、一人になって改めて下に見に行くと・・・。
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(--〆)(--〆)(--〆)以前の4倍くらいの本が我が家に戻って来てしまいました。さあて、この大量の本たちの行き先はどちらに?検討課題が増え、少しブルーになってしまいます。まあ何とかなるとは思いますが…。現状を知らないトリオさん、どんな顔をするやら…。何はともあれ、大成功に終わり楽しいブックフェアができたことに感謝いたします。残存古本の相談はもう少し後でじっくりいたしましょうか。興味深い本もたくさんあるのですが、当分本は見たくない心境です(笑)食事を終えた後に食べ物をもう一度見せられたような心境…(笑)以上ブックフェアーのご報告及び感謝を日記に記します。明日から少しはゆっくりできるかな?ああそうそう、義援金を領事館に届けに行くお仕事がまだ残っていました。

by beijaflorspbr | 2011-05-02 17:40 | サンパウロ生活情報 | Trackback | Comments(10)
2011年 04月 11日

震災から1カ月(独り言)

今日は朝から神妙になっていた。失われた多くの命へ思いを馳せていた。
たまたま見ていたTVで、ある幼稚園の卒園式の模様が映し出されていた。
失った子どもの代わりに修了証書を泣きながら受け取るお母さん。
もうダメだ・・・。すっかりお母さんの気持ちになってもらい泣きをした。
普段は子どもは大きくなって当たり前
育って当たり前と思っていることは間違いだったんだ。
人生は何があるか分からない。ある人が言った。
「限られた人生だったら思い切り行きたいところに行って会いたい人に会っておこう」
私もそう思った。今できることを精いっぱいしよう。人生を精一杯生き抜こう。
志半ばで命を閉じてしまわなければならなかった方々の分まで生きなければいけない。
そんな思いで午後2時46分、静かに祈りをささげた。
被災地の方々のことを絶対に忘れないようにしたい。
細くても長い支援をし続けたいと思っている。
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今日も東北地方では何度も地震があった。
1か月前のあの日を思い出した。
思いだしただけであの日の恐怖がフラッシュバックする。
一番怖かったのは、これからどうなるか皆目分からないことだった。
もっと大きな地震がくるのか、このまま収まるのか・・・。
適切な情報を得ることと、家族や友達からの励ましは不可欠だ。
人間はちっぽけだ。つくづくそう思ったあの1か月前の地震。
この1カ月、本当に色々なこと考えまた学んだ。
「今」を精一杯生きよう!
「ニッポンは強い国!」
日本の底力を信じよう。日本人であることを誇りに思いたいから・・・。

by beijaflorspbr | 2011-04-11 20:27 | ニュース | Trackback
2011年 03月 26日

津波で助かった友からのメール

岩手県陸前高田市に住む高校時代の同級生のH。今回の地震の津波で同市は壊滅状態とニュースで見た時、ああ!と思わずため息をついてしまいました。テレビに映った映像をみると、市内はほぼ壊滅状態というのが見て取れたからです。水没した陸前高田市を見てこれはもうあきらめなくてはいけないのではないだろうか、と思いました。Google Person Finderの中に彼女の名前を見た時、もう一度大きなため息が出てしまいました。「この人の消息を探しています」という項目だったから。何日かして、同級生のHPに「どうもHが助かっていて、しかも避難所で元気に炊き出しを手伝っているらしい」という話が伝わってきました。ああ、良かった、、、本当に良かった。しかしHはどうやって助かったのだろう?

後で聞くと、すごい話でした。地震当時、彼女とお嬢さんは自宅にいて、お嬢さんと2人で車で逃げようとしたところ、シャッターが開かなくて、駐車場ごと流されたそうです。なんとか、車の屋根に登って、運よく電柱にひっかかって、その電柱に登ったそうです。その電柱の横に大きい倉庫があり、その屋根に飛び移って何とか助かったそうです。なんという話か!昨日、同級生を通じてHの携帯メールアドレスが分かったので、メールを入れておいたらこんな返事が。。。

ハチドリへ
Hは死ななかったよ!
ありがたい。
本当にありがたい。
新しくもらった命これからどう生きようか。
楽しみ。
会える日まで元気で!


恐らく何百とメールが届いていたであろう中、こうして一言一言に命の大切さ、命を繋げることの有難さを私たちに教えてくれたHに感謝!メールを読んでいてもう泣けて泣けて仕方がありませんでした。。。

H生きていてくれて本当にありがとう。どんな時にも最後まで諦めちゃいけないんだね。いつか笑って会える日が来ますように!そしていつかのように、綺麗な小名浜の海を見て一緒に感動したいね!

★同級生Hの真実の声
Hのご主人さまからお聞きした避難状況でしたが、事実はこうだったそうです。
細かく言えば表門のシャッターが上がらなかったので裏門から出たのが幸いしたというところです。一秒違えば命はなかったな。隣にいた車は沈み三人亡くなりました。私は250メートル位流され非常用の金槌で窓を割って屋根に乗り、まるで導かれるようにたった一本残った電信柱に流れ着いたの。勇気を出してよじ登り倉庫に飛び移り救助を待ったと言うわけ。ホント運が良かった。ありがたいです。(本人の文章そまま)

う~ん、無我夢中だったと思いますが、とっさの判断で行動したHはやっぱりすごいです!

by beijaflorspbr | 2011-03-26 17:44 | 友達 | Trackback