ハチドリのブラジル・サンパウロ(時々日本)日記

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2016年 11月 06日

【ご報告】ありがとうございます!100万アクセス到達

今から約10か月前に、「90万アクセス到達」という記事を書きましたが、あれからもほぼ毎日記事を更新し続けて、きょう未明に、漸く100万アクセスという大きなハードルを越えることが出来ました。100万アクセスと言っても、エキサイトの統計では「PCのみ」のアクセスなので、この9年半の間にすっかり定着したスマホやタブレットには対応していません。実際の総アクセス数はこれ以上かもしれません。一つの目標に到達したので、これでいつでも潔くブログを書く手を止めることができます(笑)2007年6月に立ち上げた私のブログには、実に多くの方々が通り過ぎて行かれました。元々非常に少ないブラジル・サンパウロに関する地域限定情報を、生活に密着しながらも狭い行動半径の中で、治安に気を使いながらも精一杯写真を撮り、書き続けてきたつもりです。「これからサンパウロに赴任する」「ブラジルの方と結婚する」「生活情報は?」「子育ては?」「医療は?」「サンパウロの街の様子は?」「治安は実際のところどうなの?」「ブラジルのビザは?」「出入国に必要書類は?」「ビザ取得方法は?」などなど、この9年半の間に実に多くの検索ワードとメールにも個別のお問い合わせをたくさん頂き、その都度タイムリーに発信し続けて来られたのではないかと思います。一つのことを成し遂げるには、ある程度の目標は必要です。私は有名芸能人でもカリスマブロガーでもありませんが、地味ながら日々の暮らしを忠実かつ誠実に語って行くことこそが、どなたのお役に立てることに繋がるのではないかと信じてこの9年半を過ごしてきました。ブログを書くきっかけを作ってくれたのは、ブラジルと日本に住むそれぞれの家族や兄弟、友人などに宛てた『近況報告代わりの生存証明』の位置づけだったのが、歳月を経るごとに多くの皆さまが訪れてくださるようになったのではないかと思います。これからもコツコツと身の回りの身近な記録を素直に書き続けたいと思っていますので、応援して頂けたら嬉しいです。下の訪問者数という数字は、全く気にしてはいませんが全体の訪問者数と言う数字は気になります。漸く超えたミリオンの壁、次の目標はJALのミリオンマイラーかしらん?(笑)
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毎日、PC・スマフォ・携帯などからたくさんのアクセスを頂き、本当にありがとうございます<(_ _)>今後も、サンパウロの自宅Chacara Floraの台所や(笑)・・・
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大好きなJALの飛行機周辺や世界の飛行場・・・
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食いだおれの街大阪や・・・
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あちこちの街から、(出来れば毎日)記事を更新させて頂きます。「あなたのブログを読んでいると目が回っちゃうよー(@_@;)」と良く言われますが、年々体力が衰えていき、いつかはブログを書くことをやめなくてはいけない日も来るかもしれませんが、その日まで続けることをお約束いたします。先ほど録画していた番組で、たまたま宮沢賢治の「雨にもマケズ」を聞き、その飾り気のない一字一句に感動で涙ぐんでしまいました。昔学校で丸暗記した時は苦痛でしかなかったのに、その味わいの深さに愕然としています。私も宮沢賢治さんのように、何かをこの世に残せるよう、困っている方にはいつでも手を差し伸べることが出来るよう、これからもコツコツブログに記すことで貢献してまいりたいと思います。

『雨にも負けず』宮沢賢治
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
良く見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
(原文は漢字とカタカナ)

今後とも「サンパウロ生活情報」のハチドリブログをどうぞ宜しくお願いいたします!


by beijaflorspbr | 2016-11-06 20:40 | お知らせ | Trackback | Comments(6)
2011年 02月 08日

堀江 泰子先生米寿のお祝・・・エピローグ

今年96歳になられる旦那様、いつも優しい笑顔に満ち溢れています。旦那さまからサンパウロにいる私にお手紙が届いたのは、日本に帰国する数日前の1月10日過ぎことでした。年賀状を大阪の自宅に送ってしまったこと、次に日本に帰ってくるのはいつかというお尋ね、昨年8月にひろ子さんご夫妻、さわちゃん、さわちゃんのお子さんたちと海外旅行をされたこと、17回目のニューギニアに慰霊訪問をされたこと、等など近況が達筆で淡々と綴られていました。最後の文章が私の胸を強く打ちました。
「何時まで二人の生活が続くか分かりませんが、子供達や皆様に助けられながらもできるだけ二人で支え合って人生の最期を全うしたいと思っています。」
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ご結婚されて約70年、ずっと一緒だったお二人。私が良く覚えているのが、性格の強いお姫様のような泰子先生が、お仕事に行かれる旦那さまに対してきちんと玄関で正座をされ、「行ってらっしゃいませ!」と三つ指を付いて送り出されていたことでした。ああ、これぞ夫婦の鑑だ!とその時に思いました。先生は旦那さまをとても尊敬しておられました。私は到底足元にも及びませんが、これからも先生を見習って夫を尊敬できる妻にならなければいけないなと思いました。
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舞台前のモニターには、泰子先生が出演されたテレビ番組のビデオが放映されています。「ああの味だ、これも美味しいよね」と堀江家の味を知り尽くしている私はモニターを見ながら自分自身を叱咤激励していました。お料理は大好きなのに、どうしてもワンパターンになっています。もう少しだけでも前に進めるように努力していこうと改めて決意しました。
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お腹がいっぱいになったところで、デザートを頂きに行くことにしました。
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舞台では今度はお弟子さんたちが呼び出されています。お弟子さんの親分は、「梅干し日本一!」の藤巻あつこ先生です。今も現役でお料理教室をされていらっしゃいます。藤巻先生とは光栄にも同じテーブルでしたので、少しお話をさせていただく幸運に恵まれました。ご高齢かと思われますが、目がキラキラ輝いていてステキな先生でした。ああ、私もこんな先生にお料理が習いたいなと思いました。
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藤巻先生は、堀江先生のお弟子さんだった時期から突出した才能を発揮しておられ、泰子先生も一目置いていた印象がありました。私が堀江家を出てまもなく、「藤巻あつこ」という名前をTVや雑誌などで耳にするようになりました。こんな梅干しの本や、お漬物の本も出されています。
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他のお弟子さんの中にも、テレビや雑誌で活躍している方がいます。堀江先生の教え子たちがどんどん裾野を広げ、日本中に広がっていったのですね。素晴らしい!
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こうして先生を中心に集える喜びを噛みしめていらしたように、若々しく笑顔がステキな皆さまでした!
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ここで取り分けたデザートを頂きましょう。いつものように取り過ぎてお皿からはみ出しています(笑)。マラクジャ(パッションフルーツ)のムースを頂いた時、まるでブラジルにいるように錯覚してしまいました。デザートも完璧な美味しさでした!ご馳走さまでした。
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泰子先生は、1984年から現在まで目黒で老人給食のボランティアをされています。お料理の忙しいお仕事の合間にボランティアまでされるそのバイタリティーには脱帽です。そのグループの方々が壇上に上がられました。
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板前さんになったみっちー(ひろ子さんのご長男)も久しぶりに会いました。イケメンになりました!
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最後に堀江家のご家族4世代全員が壇上に上がられました。賑やかだわ!正純さんの2人の息子さんたちとも久しぶりの再会。
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最後に一家の長の旦那さまからご挨拶がありました。何でも昨晩泰子先生が挨拶文を原稿に書いて、何度も練習したにも関わらずその通りに読まなくて滅茶苦茶な挨拶をしたと突っ込みが入り会場大爆笑!
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真ん中にいるさわちゃんのご長女の萌江ちゃんが4代目です。みっちーも可愛いお嫁さんをもらいました。おめでとう~♪
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ここで楽しかったパーティーはお開きとなりました。今回はタイミング良く、このような盛大なお祝いの場に参列させて頂けて本当にラッキーでした。参列者にお土産が用意されていました。膨大な数の紙袋を、みや子さんが頑張って配ろうとしていましたので、私もお手伝いを買って出ました。こんな時、じっとしていられないお節介な性格の私(^-^)!
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出口でお一人お一人を丁寧に送り出される旦那さまと先生。話が弾んで弾んで長蛇の列が・・・(^.^)
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岸 朝子先生にお願いして写真を撮らせて頂きました。「あなたも一緒に撮りましょうよ~」なんて言われてこの後で1枚撮って頂きました。
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私が堀江家にお世話になっていた時にはお腹にいたさわちゃん!不思議な感じがします。
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ここから飛行機で大阪に帰らなくてはいけないのに、みや子さんにた~くさん日南のスイトピーを頂いてしまいました!
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全ての参加者からご挨拶を受け終わられたお二人。既に1時間は経っていたのではないでしょうか。このパワーはどこから来るのでしょう?とにかく疲れ知らずなのです。
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全てのお客さまを送り出した後、先生ご夫妻、ひろ子さんと一緒に写真を撮っていただきました。38年ぶりに再会をしたのりこさんももちろん一緒です!
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パーティーに参加させて頂けて本当に良かった!千載一遇のチャンスだったのかもしれません。色々な幸運に感謝します。再会を期してお二人とお別れしました。この日、一番印象に残った泰子先生のお言葉。
「おいしい食事を 一人でも多くの方々に召し上がって頂きたい」
全く同感です!私も先生を見習って、もっともっと多くの方々に手料理を味わって頂けるようこれからも頑張ります!

のりこさんともう少しお話がしたかったので、場所を移すことにしました。もうちょっとだけ続きます。

by beijaflorspbr | 2011-02-08 22:07 | 人生 | Trackback
2010年 12月 23日

家族(エル)へのメッセージ

ブログ記事はサンパウロと欧州を行ったり来たりしておりますが、またサンパウロに戻ります(笑)読みにくくてすみません。昨日はお友達のまかちゃんと約束してランチとお買い物DAYでした。たくさん歩いて喋って食べて充実感を感じつつ帰宅。午後7時過ぎ、外はまだ明るい中、夕飯の支度をするために台所に下りたところ、早々と娘エルが帰宅。いつもは午後10時前後に帰ってくる彼女。「随分早いね、どうしたの?」と聞くと、午後3時過ぎから降り始めた豪雨のせいで、診療所のあるビルの他、近隣が全て停電をしたそうです。「すぐに電気は戻ったものの、不安定な状態で機械を動かすと危険なので、申し訳ないけれどあと3人の予約患者さまに連絡をしてキャンセルしてもらったの。もしあのまま仕事をしていたら10時を過ぎても帰れなかったかも・・・」と。彼女は昨日朝6時台に家を出て行ったのです。年末の追い上げで本当に忙しそう。どうしてもショッピングセンターにプレゼントを買いに行かないといけないというので、護衛代わりに(笑)くっついて行きました。最近、Shopping Eldoradoで若い女性が車ごと誘拐され殺害されると言う事件が起こったので、警戒するに越したことはありません。私たち母娘が行ったのは、彼女が一番好きなブランドが入っているというShopping Market Place.あまりメジャーなショッピングではありませんが、あのモルンビーショッピングセンターの隣、と言った方が分かりやすいでしょうか。このショッピングセンターの上がオフィスになっているせいか、たくさんの人の流れがあり活気がありました。
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こちらでの年越しには、白い服を着る習慣があります。エルも毎年全ての洋服(下着も含めて)を新調するので、今年の年越しに着る服を探していました。お気に入りのお店で彼女にとっても似合うレース付きのワンピースを見つけたエル。「ちょっと高いけれど、買ってもいいよね?自分へのご褒美がたまには必要だもんね。。。」などと言いながら試着。洋服を見るのが苦手な私はいつもなら店の外のベンチに座ってぼーっと待つのですが、昨日は違いました。試着室で待ち、フィッティングにしっかり付き合い「エル、すごく可愛いよ、似合っているよ!買ったら?エルのためにあるようなドレスじゃない!」そのワンピースは上品で可憐で本当に彼女に似合っていました。私も何だか嬉しくなってしまいました。朝早くから夜遅くまで一生懸命働いているエル。その懸命な姿を間近で見ているとどうしても忘れることのできないある記憶が蘇ってきます。。。
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今から2~3年前の悪夢のような出来事を振り返ると、こんな日を迎えられるのが夢のようでした。大学を卒業後、あちこちの歯科医院を間借りして数少ない患者さまを診ていました。その傍らで専門分野の勉強を地道に続けていました。「このまま行ったらきっと私行き詰って歯医者を辞めないといけなくなる」そこまで追い詰められた頃、JICAの日系研修生制度に応募し合格。ブラジルから11名の日系研修生の一人として、東京医科歯科大学大学院、小児歯科分野に受け入れて頂きました。1年間懸命の勉強をし、日本の生活も楽しみながら多くのお友達に囲まれて楽しく過ごしました。最後の集大成は、日本小児歯科学会で一年間の研究成果を発表するという大仕事を終えて、全ての研修期間が終了しました。その頃から、ある歯科医院に2年契約でお勤めをすることになりました。その契約内容は大変厳しいもので、とても飲める条件ではない内容のものもありましたが、弁護士と相談しながら修正して働き始めました。最初はとても順調な滑り出しでうまくいったものの、2年目からは陰湿な院長のいじめともとれる態度で悩みぬいていました。最後契約が切れる数カ月は患者さまも徐々に取り上げられ、仕事が全くない日々が続きました。仕事がないということは収入の道が途絶えるということです。その頃、「もう歯医者やめちゃおうかな?もうダメかもしれない・・・頑張れないかもしれない・・・」と悩みに悩んでいました。「せっかくここまで勉強したんだからここから先は前に進むしかないんだよ。何でも協力するから、もう少し頑張ろう!」その後、無事契約が終了し、自分の道を歩み始めた頃、親切なお友達が自分の診療所を1週間に1度使って良いからね。と言ってくれました。前にお勤めしていた診療所から一緒に付いてきてくださった患者さまがどんどん口コミで患者さまを紹介してくださり、週1回ではとても時間が足りなくなり、週2、週3と増やしていくうちに「ねえねえ、診療所の権利を譲渡したいんだけど…」とそのお友達からの有り難いお話。月賦で少しずつ支払い、それも10月で無事終了。名実ともに彼女の診療所となりました。
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「患者さまってありがたいよね。わざわざ診療所まで足を運んでくださって、その上Xmasプレゼントまでくださるのよ。」としみじみ感動していました。あの苦しかった日々、投げ出さなくて良かった。「来年からは新しい患者さまがもっと増えるの、有り難いよね。本当に!」辛いところを乗り越えてきた彼女だからこそ、実感できるのかもしれません。買い物に付き合ったお陰で、彼女ともゆっくり話すことができ良い時間を過ごせました。今も日々亡き両親にお願いしているのは「お一人お一人の患者さまのためにお役に立てる親切な歯科医となれますようにお守りください」ということです。逆境を出発点にぐいぐい前に進んできた娘エルをこれからも温かく見守っていきたいと思います。今日は最初から最後まで個人的なお話ですみません。これからも子どもたちへの応援旗、振り回し続けます!(え?怖いって?)(●^o^●)


by beijaflorspbr | 2010-12-23 22:13 | 家族 | Trackback
2009年 06月 25日

ブログ開設2周年に思う

冬のサンパウロ、朝はいつも曇り空。
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でも少し経つとそんなことはすっかり忘れたようにカラッと晴れる。
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今日は少し遅い出勤の娘、昨日の夕飯の残りを食べる。ナスとズッキーニの揚げ浸し、インゲンのゴマ和え、ャケの塩焼きに子持ちメカブと大好物が並ぶ。上にあがってメールチェックをしながら「ママ、おにぎり作ってね、2個、シャケとメンタイ」「うん、分かった、でもご飯がないから炊かないと…」慌ててご飯を炊き、プラス1個梅おにぎりを持たせた。私たちのお昼は前に作ったスパゲティー、なかなか味がこなれて美味しい!
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最近、あることでずっと悩んでおり、そのトラウマが少し残っているようだ。その問題は解決したものの、心の燻りはずっと続いている、しんどい毎日だ。そしてこんな心の内を包み隠さず表現している私はもしかしたら軽率なのだろうか。ここに寄ってくださるみなさまはどんな記事を求めてここに来られるのだろうか。楽しい毎日だけではなく、苦しく切ないそして悩ましい日もある、そんな私の赤裸々な日々の生活をどう感じておられるのだろうか。人生って簡単じゃないよね、人には色々な事情を抱えながらそれをおくびにも出さないで淡々と生活しているんじゃないかなあ、というのは夫のトリオさんの説。昨日は昨日でトリオさんの帰りが1時間ほど予定より遅くなっただけで心臓の高鳴りが止まらなくなった。「もし何かが起こったらどうしよう、一人でどうすれば良いのだろう」という気持ちに陥ってしまった。娘は「精神科の医者に診てもらえば?」と簡単に言うが…。とにかく心晴れやかになるまではもう少し時間がかかりそうな気がする。7月に入れば、少しだけ生活環境を変えるようなことも待っているのでそれを楽しみとしたい。
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さて、今日6月25日はブログを始めて2年が経った。私の2年、色々あったな。4月までは癌患者だったし、病気のことで悩んだことも多かったけれど、今は別のことでまた悩んでいる。神様がどんどん新たな試練を私にお与えになっているのかもしれない。
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何はともあれ、無事に2年が過ぎ、色々と経験したことをここで表現させて頂けたことに感謝するのみだ。この2年のページビューをエクセルに入力してオートサムで計算してもらったら249,177だった。初めの方は2桁だったページビューも、今では随分増えた。「何かの間違いだよね」と家族で良く話す。「誰がどんなところから読みにきてくださるのかしらねえ」これも良くのぼる話題。私の5人家族のうち、読むのは筆者の私(笑)と日本語はあまり得意ではない長女のみ。長女は画像しかみない。次女と長男は全く読んでいない。日系ブラジル人のトリオさんももちろん読まない。日本語の読める2人は私が死んでから読んでくれるのかしら、などとと思ったりもする。その点ブログは便利で有難いツールだな。半永久的に保存してくれる。
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さて、ページビューのことを上に書いたけれど、いったいこのブログにどんな検索ワードで見に来られるのだろうか。参考までに今日までの検索ワードは以下の通り
1位 beijaflor
2位 サンパウロ日記
3位 Beija Flor 時々日本
4位 http://beijaflors.exblog.jp/
5位 サンパウロ生活
6位 JAL048
7位 エールフランス
8位 jal 食事 ブラジル  
9位 ブラジル サンパウロ  
10位 jal048 
先月5月の検索ワードは以下の通り
1位 サンパウロ日記  
2位 beijaflor  
3位 beijaflor サンパウロ  
4位 Beija Flor 時々日本  
5位 あすかてくるで  
6位 yakisobahause brazil  
7位 ブラジル移民 歴史  
8位 JAL エコノミー 座席  
9位 JAL ブラジル  
10位 JAL サンパウロ
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それに対して私のタグの上位5番目はこの通り
 家族(159)
 グルメ(103)
 友達(88)
 散歩(85)
 サンパウロ(70)
何と言っても一番は「家族」の記録、そして食いしん坊の私は「グルメ」が2番目にきてしまう(>_<)「友達」も生きる上になくてはならない大切な私の宝物。お散歩は自分の楽しみ。30年以上暮らす「サンパウロ」は我が第二の故郷には違いない。
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平凡でつまらない人生かもしれないけれど、これからも日々の記録をきちんとこの場に残していけたらいいなあと思っている。
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いつもいつも応援して頂き、ありがとうございます。これからも自然体でがんばります!


by beijaflorspbr | 2009-06-25 04:23 | 人生 | Trackback | Comments(30)
2009年 06月 02日

お知らせとお願い

最近しばしばこのブログの内容と全く関係のない書きこみが目につくようになりました。朝起きてこれらのコメントを目にすると、何とも言えず嫌な気持ちになり脱力感でいっぱいになります。ブログ管理者は、これらの猥褻目的や無関係な書き込みに対して、IPアドレス、コメントを削除する権利を有しています。その都度、そのような作業をしても後から後から書き込みは減ることがありません。こんなくだらない書き込みをあちこちにして何が楽しいのでしょうか。その悪戯URLにアクセスする人がいるのでしょうか、私にはとても信じられません。

それと、最近多いのが、ブログを立ち上げたばかりの方なのでしょうか、「私のブログに遊びにきてくださーい」の短いコメントもしばしば目にします。これらの行為はどのようなものでしょうか。ブログを訪問する目的は、その人の書いていることに対して興味を持ち、共感し、思い出を反芻したり、疑問点を明らかにし、時には感想を述べる、そこから心温まる交流の輪が広がっていくものなのではないでしょうか。現実的に、このブログを立ち上げた後にお友達になった方もたくさんいらっしゃいます。落ち込んでいる時も随分助けて頂き、ブログを立ち上げて良かったと感謝しています。少なくとも私は自分自身の記録をこの世に残すことと、私の家族や友人、知人たちとの輪をこのブログで結びたいと思ったからここを立ち上げました。

悪戯心を持った人たちに汚されるのは私の本意ではありません。コメントは大いに歓迎いたしますが、あくまでも記事に沿ったものであって欲しいと思います。分かっておられるとは思いますが、私ハチドリおばさんからの心からのお願いです。今後猥褻目的や、故意に自らのブログへ誘導するような行為があった時は遠慮なく削除させて頂きますことを、ここに改めてお知らせいたします。ここのコメント欄をご覧になって、猥褻目的者へのアクセスをされたとしても私どもはそれに対して一切責任を持ちませんのでご了承ください。*今後、猥褻目的のコメントが頻繁になるようでしたらコメント認証制にさせて頂きます。人間として生まれてきて、誰にでも我が人生を誇れる生き方を精一杯していきたいものです。

by beijaflorspbr | 2009-06-02 00:19 | お知らせ | Trackback
2009年 05月 12日

我が人生を振り返る~③

☆今日も独り言がちょっと長くなりましたが読んで頂けたら幸いです。

1997年1月、サンパウロに戻ってきてからはPTA役員として小学校6年生の子どもたちを無事卒業させる様々な作業や活動に没頭した。それよりも、父の面倒を見ていた間、滞りがちだった仕事を毎日精力的に片付ける日々が長く続いた。お客さまのお宅を回り、注文を頂き、素材を調達、デザイナーと詳細な打ち合わせ、その後職人に発注という作業は傍から見ると簡単なようだが意外に手間がかかり大変だ。3週間ほどして出来上がりのチェックそして納品、集金と無我夢中のうちにめまぐるしく時間は過ぎて行った。その間に、子どもの送り迎え、大学受験勉強、息子の塾の送り迎えやお母様方との懇親ランチ会、はては日本に帰国する方の送別会までこなしていた。その頃頻繁に私の自宅でのシュハスコ会が催された。名目は色々だったがとにかく人がよく出入りしていたように思う。PTA役員として特別養護老人施設への慰問、図書ボランティア、社会奉仕活動なども手伝っていてこの頃の手帳は毎日スケジュールがびっしり詰まっていた。3月6日、学校で巣立ちの会を催し、18日、息子のボンはめでたく小学校を卒業した。春休みは所属するサッカークラブの合宿や、友達との交流に忙しかった。卒業記念に、息子と共にイグアス旅行に行ったのも良い思い出だ。前年の11月にイグアスに父や兄と行った時は、ブラジルからアルゼンチン側の滝を見ただけだったが、息子と行ったこの旅では、アルゼンチン側から滝壺を上から眺めた。迫力があって感動した。また当時できたばかりのピカピカの高級ホテルに格安で泊まることができたのも良い思い出になった。Ponte de Amizadeというブラジルとパラグアイを結ぶ橋を渡ってパラグアイ側の免税店での買い物にも行った。
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6月に実家から父が脳梗塞を起こして入院したという知らせが来たが、子どもたちの学校のこともあり、すぐにサンパウロを留守にすることはできなかった。幸い、3週間ほどで症状は改善され、23日には退院した。しかしその後、7月12日に再び脳梗塞の症状が出て入院。山のような仕事を片付けて取りあえず私一人で飛行機に飛び乗った。

1997年7月29日 帰国(JAL063便 サンパウローLAー成田ー関西)
心配した父の容体は幸い落ち着いていたので、お手伝いさんの夏季休暇に合わせて、JALのクーポン券を使って、母と心斎橋にあるホテル日航大阪に一泊したのも良い思い出だ。車椅子を押して、心斎橋商店街を歩いたり、大丸デパートやそごうデパートを歩いて、ゆっくり買い物をした。その時母に買ってもらった夏のセーターは今でも大切にしている。母子の小旅行から戻って、すぐに父が無事退院した。父の脳梗塞は、入院して点滴治療を受けたらすぐに症状が改善されるものだった。退院を見届けて生活の目途を付け、帰伯準備にいそしんでいた。出発まであと2日という時に、新幹線に乗っていた私の元にサンパウロから訃報が届いた。義母の突然の逝去だった。義母は、12歳の時に、家族移民として福岡県からブラジルに移民した。コーヒーコロノ(コーヒー園で働く労働者)として、学校で勉強することなく家族の働き手として日の出から日没までエンシャーダ(鍬)を担いで懸命に働いた。何度も何度もその時の苦労話を聞かせられた。18歳で義父と知り合って結婚、サンパウロ州郊外の奥地からサンパウロ市内に出てきて、中央卸売場で野菜の仲買人をして家計を支えた。人一倍教育熱心で、子どものほとんどは大学を卒業させた。「教育は誰も盗まない」が口癖で、自らの食料を削って贅沢もせず、必死で教育を受けさせた人だった。自分が志半ばで教育を受けられなかったことが義母の原動力だったように思う。私も夫と結婚して、この義母に苛められたことなど一度もなかった。優しくて慈愛に満ちた素晴らしい移民の女性だった。仕事帰りの新幹線の中で訃報を聞いた私は、車中でずっとずっと泣いていた。あまりに突然の別れだった。お礼も言えず、感謝の気持ちも伝えられなかった。今でもその無念な思いは変わらず私の心を突き刺す。思えば日本に帰国する前日、ご挨拶に行った時、静かに、まるでそこにいないように母は静かに編み物をしていた。最後の言葉は「お父さんお母さんによろしくね」だった。悲しい永遠の別れだった。

1997年8月17日出国 (関西ー成田ーLA-サンパウロ)
サンパウロに帰って4日目に亡き義母の初七日の法要が、西本願寺のお寺で営まれた。義母を慕う方たちと家族や親戚で、本堂はいっぱいになった。一番悲しんでいたのが、義父だった。一回り小さくなったようで、その姿をみてまた泣けた。両親と暮らしていた義姉の悲しみも深いものだった。やっと仕事をリタイヤして、両親とゆっくりした時間を過ごそうと思っていた矢先の義母の死だったのだから。何も知らずにサンパウロの嫁に来て、どれだけこの義母にお世話になったことか。慣れない子育ての時は、毎週夫の実家にお邪魔してご飯を食べさせてもらったものだった。たくさん愛情をかけてもらったことは感謝してもしきれない。この年の8月31日、ダイアナ妃が事故で死去した。このニュースには本当に驚いた。ブラジルでも葬儀の模様がTV中継された。9月12日、新車(GOLF)が届いた。我が家が買った初めての外車だ。前の車がかなりボロだったので、とっても嬉しかった。今度はオートマティック車なので、随分楽そうだ。この頃、ブラジルでは、マニュアル、そしてエアコンなしが標準だったので、メキシコで作られたこのGOLF車は画期的な車だったのだ。義母の49日忌をお寺でして頂いた時は、稲荷ずしを100個作って持っていった。10月の初めには義母の納骨をコンゴニャス墓地にした。義母は生前火葬を希望していたので、希望どおりになったのだが、夫のトリオさんは「火葬は絶対嫌だ」と言いだす。日本と違い、火葬にすると焼き過ぎて骨が残らず灰になってしまうというのだ。だから嫌だという。土葬か火葬かでこの時ちょっと揉めた。私は当然火葬を選ぶと言い張ったのだが、ブラジルの場合はほとんどが土葬が主流なのだ。だから広いスペースに小さい遺骨を置いた時、また悲しくて家族全員で泣いてしまった。10月にトリオさん滞在中のポルトガルのリスボンからパリに行き、兄夫婦にお世話になった。リスボンーパリまではTAP(エアーポルトガル航空)で3時間ほどだそう。パリに3泊させてもらって帰りはVARIGでサンパウロまで戻ってきた。この頃、トリオさんはポルトガル人の親友のお誘いで頻繁にポルトガルへ旅行していた。ちょうど同じ頃、娘2人は、それぞれ私立大学の法学部と歯学部への合格通知を頂いていた。

1997年12月21日 帰国(サンパウローLA-成田ー伊丹)
この時の帰国の大きな目的は、義母の生まれ故郷である福岡県甘木市のお寺にお骨を納めることだった。義母の甥が全て手配してくださった。義母のお骨を無事生まれ故郷に納められてやっと故郷に帰って来られたことになったのだ。ちょっと感傷的になったが安堵した。その時に、義母の甥に太宰府天満宮に連れて行ってもらった。梅が枝餅が美味しかった!そのまま息子のボンと長崎のハウステンボスに遊びに行き、帰りに長崎の同級生に会いに行ったのだ。家族で何とか平和なお正月を祝い、人間ドックを受け、無事滞在を終えてサンパウロに戻った。

1998年1月10日出国(JAL064便伊丹ー成田ーLA-サンパウロ)

by beijaflorspbr | 2009-05-12 11:27 | 人生 | Trackback
2009年 05月 11日

我が人生を振り返る~②

1996年7月30日 帰国 (JAL63便サンパウローロスアンゼルスー成田ー関空)
成田に到着すると、飛行機を降りたところに係員の人が立っていた。「ハチドリ様」と大きく書いた札を掲げていた。嫌な予感がする。何かあったのだろうか?すぐに係員に申し出た。「私がハチドリですが…」「ご伝言がございます。お母さまが骨折をされ、緊急入院をされた旨従妹の〇〇さまより承りました。すぐに〇〇さまにご連絡をくださいとのことです」

母は、2月に人工関節置換術を受け、5月の連休前に退院していた。私が帰るというので、母は張り切って家の畳替えをする予定で、職人さんのために麦茶を沸かそうとしていたらしい。ひょんなことから足が畳のヘリに引っかかり転倒。そして3か所の複雑骨折をしてしまった。何とか電話の所まで這って行き、救急車を自力で呼んだらしい。後でちょっと笑ってしまうのが、畳替えの職人さんが、救急車に運ばれる途中の母に、「畳のヘリはどのデザインがいいですか?」と聞いたそうだ。後で母が笑っていた。「あんな時にねえ、もう…なんだっていいじゃない、と思ったけどちゃんと自分の好きな模様にしておいたわ」母も母だ。結局母はその頃から半年近く入院することになる。これが私の人生にまた大きな負担となって圧し掛かることはこの時点では分からなかった。

私の帰国を待って、3ヶ月以上入院したままの父を退院させることになっていたので、帰国した翌日7月31日に予定通り退院した。その時の父の体重は忘れもしない37キロ。ガリガリに痩せてしまって、骨が当たって痛いとこぼしていたっけ…。この日からもう必死で両親の面倒をみることに全力を傾ける日々が続く。父の歩行リハビリも兼ねて毎日母が入院している病院に連れて行く。最初は嫌がって車椅子に乗っていたが、そのうち歩かせるようにしたら、今度は病院に行くのを嫌がる。嫌がる父を無理やり引っ張っていく、そうしているうちに、父も母のところに行くのを楽しみにするようになった。母はもちろんずっと父や私のくるのを待っていた。母の手術もうまくいき、既にリハビリも始まっていたが、私のすることは山ほどあった。洗濯、買い物、掃除に加え、仕事も少しだけ片付けた。息子を伴っていたので、夏休みの宿題もさせた。遊びに連れて行く余裕は全くなかったのが少し可哀想だったが。

母が入院してしまったので、父をどうするか!?もちろん大病をして弱っている父をひとりで置いておくわけにもいかず、兄と相談した結果、主治医に相談して、もし許可が出たらブラジルに連れて行こう、と決まった。8月初旬の診察日に恐る恐る聞いてみたところ、主治医は「ああ、いいですよ。紹介状を書きますから、先方の〇〇先生(日本人医師)の診療所で定期的に診察をうけてくださいね」「先生、本当に大丈夫でしょうか?」「大丈夫だと思います、体力がなくなっているので栄養相談を受けて帰ってくださいね」外科の主治医のN部長はこの時こう仰ったが、後で手紙のやり取りをした時に「あの体力で本当に大丈夫かと案じておりました…」ってあのねえ、先生!!!実は4月の瀕死の状態から救われた時、父の右肺には肺水腫の名残か、まだ少し水が溜まっていたのだった。それと腸を1メートル20センチも切ったために、頻繁に下痢も起こしていた。足もむくんで紫色になっててよくマッサージしたものだ。何はともあれ、ドクターからの許可も頂いたので、父の航空券を手配し、一緒に帰ることになった。もちろん父の体力を考慮してビジネスクラス、そして全行程車椅子を手配した。サンパウロに本社があり、大阪に支社のあるT旅行社にお世話になった。

1996年8月17日出国(JAL064便 関空ー成田ーロスアンゼルスーサンパウロ)
機内での父は終始落ち着いていた。時々タバコが吸いたくなるようで、そっと席を立ってはCAさんの休憩所でコップに水を入れてもらい、煙草をふかしていた。当時はまだ喫煙席があった時代だ。父は私の煙草嫌いを良く知っていて気を使ってくれたのだと思う。車椅子に乗ってサンパウロに到着した父を久しぶりに見たトリオさんは本当にショックを受けたそうだ。まるで骸骨のように痩せ細った変わり果てた父がそこにいたからだったからだ。

サンパウロの自宅では、心配なので私と同じ部屋にベッドを入れて休んでもらった。朝はおかゆ、昼は軽いもの、夜は家族でしっかり食べてもらう食事法でどんどん元気になった。毎日階段の上り下りをいやでもしなければならない我が家の構造は父の体力作りにはとても役に立ったようだった。しかし当時の父は仕事もあったので気が気じゃなかったようだ。長い間仕事は休んでいたものの、失ったわけではない。時々「お母さんの所に帰りたい、日本に帰りたい」と言って私を困らせた。その年、私は日本人学校の学年委員長という役員をしていたため、学校行事や会議や打ち合わせに出かける機会も多く、そんな時に限って父は我儘を言ったのだった。ただ、我儘になったり言いたいことを表現できるようになったというのは良いことなのかもしれない。生きる意欲が出てきた証拠なのだから。そんな時には我が家の助っ人、頼りになる兄貴に無理を言って、サンパウロまで飛んできてもらった。あの時の父の嬉しそうな顔は決して忘れることはできないだろう。そして何と父と兄と3人でイグアスの滝への旅行を計画したのだった。その時のVTRは今でも大切に我が家に保管してある。日本からブラジルまで車椅子に乗ってやっと来た父が、その頃は杖を突きながら自力で滝壺までの4キロを歩き切ったのだ。その頃から顔色も良くなり、とても元気になった。
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その頃母は母で病院にてリハビリに励む日々を送っていた。その頃の日記が残っているが、孤独が一番の敵だったようだ。特に個室に入院していたので、話し相手もいなくてどれほど寂しかったことか…。胸が痛む。

その頃の私は父の世話、家族の世話、PTA、仕事、おまけに娘の大学受験が目の前に迫っていたのだった。どうやって毎日を乗り切ったのか今でもあまり覚えていない。恐らく私の人生でもっとも多忙な日々だったかと思う。子どもの送り迎えも毎日していたあの頃は、タクシーの運転手のごとく、毎日100Kmはサンパウロの街中を駆け抜けていたものだった。色々あった4か月だったが、何とか父を日本に連れて帰る日になった。

1996年12月17日帰国(JAL063便サンパウローロスアンゼルスー成田ー関西)
行く時は車椅子でやっと辿り着いたのだが、帰りは杖を突いてしっかりした足取りで祖国の地を踏んだ父だった。帰国後、N外科部長の診察を受けに行くと、本当に驚かれた。37キロだった体重は47キロに増え、胸水も綺麗になくなっていた。酸素を取り込む量も十分だった。もしあのまま日本にいたらまた倒れていたと思う。思い切って転地療養をさせて本当に良かったと家族で喜んだのだった。最大の理解者である夫のトリオさんにはとても感謝している。

帰国後、4日めから3晩母を外泊させてもらった。お正月を家族と過ごすための練習だった。成果はまずまず、家での暮らしも何とか大丈夫そうなので、年末年始は自宅で家族と一緒に過ごすことができた。これが両親には一番嬉しいことだったかと思う。その時のお正月は初めてお重を買って形だけのお正月を家族で祝った。お正月が終わり、6日にいったん病院に戻り、翌7日に5か月ぶりに母はやっと退院することができた。辛い日々を我慢して得た健康の喜びをかみしめていた。退院した母が行きたかったところは、スーパーやデパートだった。私は喜び勇んでその両方に連れて歩いたものだった。私が帰った後、どうするか?と相談の結果、お手伝いさんをお願いすることにした。知り合いの伝手で、それはそれは良い人を授かったのだった。経済的負担は増したが、それよりも何よりも両親が快適に毎日の生活を維持することの方が大事だったのだ。

1997年1月11日 出国(JAL064便 関西ー成田ーLA-サンパウロ)
不安そうな両親を置いてサンパウロに向かう。この時の別れはさすがに辛かった!この便では、T先生ご夫妻とご一緒した、T先生は胆管がんの手術を受けたものの容体がおもわしくなく、いったんブラジルに引き上げるところだったのだ(結局この後8月10日に亡くなられた)。旅慣れた私がラウンジのソファーで横になれるように手配するなど、身の回りの世話を一生懸命した。結局この道程は、行きも帰りもずっと誰かのために動き回っていた私なのだった。

by beijaflorspbr | 2009-05-11 13:39 | 人生 | Trackback
2008年 11月 25日

病気に罹ってから思うこと

昨日の朝、慌ただしい中で心洗われるような番組を観ることができた。それはNHK「チャリティー歌謡ショー」という番組。森進一や、懐かしい岩崎宏美、堀内孝雄、徳永英明などの豪華メンバーだった。司会は鳥越俊太郎さんとNHKアナウンサーの鎌倉さん。この日は出掛ける用意をしながら最初は聴くともなしに聴いていたけれど、鳥越さんのつぶやき(ナレーション)が始まって思いあまって涙してしまった。それはこんな言葉だった。

私は現在癌と闘っています。3年前に大腸がんを発症し、肺にも転移。
3回の手術を受けました。
癌に罹ってからは色々なことを考えます。
しかし悪いことばかりではありません。
癌に罹ると残りの時間を考えます。
自らの人生を考えます。
すると、今まで気付かなかった春の桜を見ても山や川を見ても
その場その場の光景が心にしみます。
今世の中には希望を見出すことができない人がいます。
その人たちにこの言葉を贈りたい。
辛い、厳しい、苦しい、悲しいばかりの人生でも
春もあれば夏もある。秋も冬もくる。
人生決して諦めないで。
人は希望を持つことで一歩前に進むことができるものなのです。

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ああ、鳥越さん、何と良いことを仰るのだろう。同じ大腸がん患者として、私の考えや言いたいことを代弁してくださっているとつくづく感じ入ってしまった。確かに癌に罹ると人生が180度いや360度くらい変わってしまう。今まで順風満帆だった自らの人生に大きな脅威が忍び寄ってくることの恐怖は味わったものしか分からないし、そんなものは誰にも味あわせたくない。癌細胞摘出手術を受け、4年半経った今言えることは「私は日々生きている。神様に頂いた命をこれからも慈しみ大切にしていこう」ということ。それと、今のご縁を大切にしていこうということ。発症以来多くの人たちに支えられてきたことを忘れないようにしよう。故郷の山河を目にしっかり焼き付けておこう。会いたい友達には会っておこう。直腸がん完治まであと5か月、強く生きて行きたい。毎日を大切に生きて行こう!と改めて決意している。

by beijaflorspbr | 2008-11-25 20:17 | 癌と闘う | Trackback | Comments(2)
2008年 09月 04日

心を打つ言葉

3日ぶりに我が家に戻ってまいりました。ところで昨晩は夫を1か月前に突然亡くしたNちゃんの送別会(歓送会)が盛大に行われました。ある組織の長だったKは、多くの方々のお世話をしていました、その関係か、Nちゃんを慕い、励ましてくださるために集まってくださった方は約70名。まさに老若男女、大変な賑わいでした。お料理はデリバリーです。お寿司とPIZZA(Pizza Hutは万国共通!?久しぶりに頂きました!)鶏・海老のから揚げと餃子,焼き豚、そして全体図です。
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皆さんが色々感謝の言葉を述べられた中で2つの言葉が胸を打ちました。
「私はもう年寄りです、(故人と)代われるものなら代わってあげたかった…」(70代男性)
「人の親切や温かさというものは、どんな深い耐えがたい悲しみをも包み込み和らげてくれるものだということを知った」(Nちゃんの感謝の言葉)
皆さん泣いたり笑ったり…関西ですのでボケと突っ込みが忙しく交錯していました。私も泣いたり笑ったりで忙しいこと!最後まで心地よい輪の中で漂っていました。こんな素敵な方々に囲まれて、亡きKとNちゃんがこの地で過ごした12年間は最高に充実していたことでしょう。

私もやっと入力作業が完了しました。あともう少し引っ越しなどのお手伝いが必要ですが、引き続き支えとなって頑張っていきたいと思っています。それにしてもひどい寝不足…買い物も済ませたので今から少しお昼寝をしようかな~~♪

by beijaflorspbr | 2008-09-04 14:17 | 人生 | Trackback | Comments(8)
2008年 08月 04日

前向きに前向きに…

皆さまからのメッセージを拝見し、このハチドリ泣けてきました。。。コメントをじっくりと読ませて頂きましたが、まだまだ読み方が浅いいや、まだまだ甘いと感じています。しかしながら今はKくんの病状が頭の大半を占めております。でもきっと必ずお返事をおひとりおひとりにお返しします。私の言葉で、私の心でお返しします。要らないよ!と言われたって絶対にお返ししますからね(笑)!でももう少しだけ時間をください。今は瀕死のKくんの傍にいて、妻のNちゃんとともにクモ膜下と闘いたいのです。

ご心配いただいている私の体調ですが、少し睡眠不足はあるものの、全体的には快調です。時差ボケも「眠たいときに眠ってはいけない」状態になると、途端に治ってしまうものです。私は人の心配をしている時が一番自分らしさを発揮できるような気がしています。この性格は一生治らないでしょう。「無理をするな」との力強いコメントが耳に残り(コメントは携帯で読んでいますよ)、ずっと病院にいようかとも思いましたが、思い切って自宅に帰ってきました。自らの体も労りつつ今置かれた立場や使命感にしばらくは没頭させてください。皆さま本当にありがとう!!

by beijaflorspbr | 2008-08-04 06:33 | 人生 | Trackback