ハチドリのブラジル・サンパウロ(時々日本)日記

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2007年 07月 08日

ブラジルの七夕まつり

今日、7日と8日は、恒例の宮城県人会主催の「七夕まつり」がLiberdade広場を中心に開催されています。毎年欠かさず続けている行事なので、ブラジル人の間にも広く知れわたっていて、人気があり、大盛況でした。私も仕事を終えた娘と彼氏に連れて行ってもらいました。出店の数も、種類もたくさんあり、どの店も流行っていました。小規模ですが、なかなか綺麗ですね。
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広場ではみんなで「炭坑節」を踊っていました。懐かしい!のれんの字間違ってます。テン「ブ」ラですって!私たちはこのジャンボ餃子と(バックのたこ焼きも)お刺身の盛り合わせでビールを3本も飲んでしまいました!うぃ~
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後ろ髪引かれながら帰る我々…また来年までね。

# by beijaflorspbr | 2007-07-08 10:58 | サンパウロ生活情報 | Trackback
2007年 07月 07日

渾身の力

7月7日は母の誕生日。前の項にも書いたが、去年の誕生日は元気な母と電話で長話をした。今年元気だったら、77歳喜寿だった。7月7日の77歳。7並びで盛大なお祝いができたのにね、などと娘と話す。「残念だね!」最後はいつもこの言葉がついつい出てしまう。早朝、こんな空を見つめていると、「あること」を思い出し、胸が熱くなった。
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それは、母が息を引き取る3日前のこと。夕方、いつものように、お茶を吸い飲みで飲ませたり、汗を拭いたり、乾いた口を大きな綿棒で綺麗に拭いたり、体の向きを変えたりと細々と面倒を見ていた時、突然母がぎゅーっと私を両腕で抱き締めてくれたのだ。「お母さん、どうしたの?」母は、もう口が利けなかったので、じっと静かに私を見つめていた。「お母さん、ありがと!」私はさりげなくお礼を言い、母の手を握りながら淡々と世話を続けた。翌日から母の左手は全く動かなくなった。後から考えると・・・というのは良くあることだが、あれが母の最期の愛情表現だったのだろうか。 母を思う時、必ず思い出す光景だ。温かい手を今でもはっきり思い出すことができる。母が恋しい・・・・・・

# by beijaflorspbr | 2007-07-07 07:10 | 両親を想う | Trackback
2007年 07月 04日

楽しみが増えた

親しいお友達の何人かに、このブログのアドレスを教えたら、こう言われた。「楽しみが増えた」と。

ちょうど去年の4月、遅まきながら我が家にやっとブロードバンドを導入した時に、スカイプをダウンロードして、すぐに母に電話をした。おそらく1時間以上は話していたのではなかっただろうか。相手にPCがなくても、スカイプアウトでかなり安くかけることができる。「こんなに長時間、しかも安価で話せるなんて、夢みたい。お兄ちゃんも(海外在住)〇〇さん(お嫁さん)とも長いこと話したのよこれで楽しみが増えたわ、嬉しいわ~」こう言われて、本当に嬉しくなり、頻繁に母に電話をするようになった。母はいつも兄や私からの電話を待っていたようだった。7月7日は母の76歳の誕生日だ。その日も、もちろん電話をした。だが、その日は少し弱々しい声だった。「最近ね、胃の調子が良くないの、あんたが帰ってきてから病院に連れて行ってもらおうかな。それにしても、ひとりで住むのは3ヶ月が限界だね。もう疲れちゃったわ」「お母さん、そんなに弱気でどうするのよ、私はもう少しで帰るよ、帰ったら美味しいもの買ってくるし、色々話したいこともあるから聞いてもらいたいし、私が帰ったらすぐに元気になっちゃうよ、頑張って、本当にもうすぐなんだからね。あまり調子が悪かったら介護タクシーを呼んで、ヘルパーさんに連れて行ってもらってね」「いや、いいわ。あんたを待つわ」母は足が不自由で、ひとりで家の外に出ることができなかったが、かといって誰かを呼んでまで病院にいくのは億劫だったのだろう。電話を切った3日後、母は脳梗塞で緊急入院した。7月10日のことだった。急遽チケットを手配して、13日にサンパウロを出発、15日に帰国した。翌16日早朝、入院中の母のところに駆けつけたが、生気のない顔で、私のことも認識できず、ベッドにぐったり横たわっている変わり果てた母がいた。「帰ってきたよ、遅くなってごめんね」と言ったが、無反応。左後頭部の脳が詰まって「見当識」というのをやられてしまったのだった。今まで知っていたこと、人を見分ける能力などが無くなってしまうそうだ。

それから2週間、今度は突然胃がん末期の宣告を受けた。壮絶な闘病をし、私の最愛の母は、9月23日に私の元を離れ、父の待つ天国へ永遠の旅に出てしまった。去年の今頃~夏の終わりまでの辛い記憶は消し去りたい思いだが、私を愛してくれた母の思い出は一生の宝物として大切にしていきたいと思っている。「楽しみが増えた」と言ってくれた母の言葉を、ブログを始めてもう一度友達から聞かせてもらえるなんて、きっと母が言ってくれているのかもしれないな、と思ったら涙が出た・・・。母にも読んでもらいたかった。立派な文章、良い文章など書けるわけがないので、自分の気持ちを正直に正確に伝えていきたいと思っている。サンパウロの様子も写真でお伝えできればと願っている。これからも応援をよろしくお願いいたします。

# by beijaflorspbr | 2007-07-04 13:17 | 両親を想う | Trackback
2007年 07月 04日

みそと骨

みそは今月でやっと生後8ヶ月を迎えた。7を掛けると6歳ちょっと手前か。口寂しいのか、目にしたものを何でも口に入れたがるので困っている。ちゃんとAdestramentoといういわゆるしつけをする学校にも行かせたのだが、なかなかこの癖が直らず困っている。そこで、牛の骨を肉屋さんから頂いてきたので、茹でて与えることにした。みその餌付けに挑戦中の娘、真剣なみそ、いつくれるのかなあ?(イライラ…)ヤレヤレ…やっと俺のものになったぞ~。手間のかかる家族だ(みそ言)。
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みそはバイリンガル犬である。お手もチンも伏せも全て二ヶ国語で命令されるとちゃんと分かるのだ。食事は一日2回、ドッグフードに、鶏の首&山盛り野菜を茹でて与えている。前の犬みさで失敗したので、今度は塩味は一切与えていない。もちろん人間の食べ残しなど、もっての外だ。今のところ、毛の艶が良く、筋肉も締まっているような気がするがこれが親ばかの証拠なのね。

# by beijaflorspbr | 2007-07-04 03:20 | その他 | Trackback | Comments(4)
2007年 07月 03日

娘の友達の結婚ラッシュ

お年頃の娘は、最近結婚式に招かれることが多い。中でも先週の土曜日は、「Madrinha(仲人というより立会人)」を引き受けて、張り切って参列した。時間がなく、色々なものを抱えて慌てて階段を駆け下りる我が娘。
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花嫁さんは、高校時代からの親友で、設計士をしている子だ。我が家にも頻繁に遊びにきていた。彼女は日系3世で、相手は韓国系の2世。最近、娘の友人で韓国系の相手と結婚する子が多い。日本でも韓流流行だがこちらもなのかしら?ここは日本とは違い、単一民族国家ではないので、相手が何系か、どんな人かは大変気になるのだ。ドイツ・イタリア・ポルトガル・スペイン・アラブ・アフリカ・中国・韓国などありとあらゆる人種の坩堝と言われている国なので、どのような人との出会いもありえるのだ。「できれば」日系がいいな、と思うのは私の身勝手なのだろうか。ある意味、人種差別かもしれないが、文化や習慣の違う相手と何十年も一緒に暮らせるのだろうか?色々考えても、やはり日系が「楽」なんじゃないだろうか。確かに青い目の孫には憧れるけど…。でもお婿さんとポルトガル語でいちいちコミュニケーションをとらなくてはいけないなんて辛いな、などと思ったりもする。・・・などと余計な心配をする前に、早く良き相手を授かるよう、祈るのみ!花嫁さんの花束を見事キャッチしたから次は娘の番かしら?期待大の母であった・・・。 

# by beijaflorspbr | 2007-07-03 02:31 | 家族 | Trackback
2007年 07月 02日

赤飯を作る

私のお赤飯は、料理研究家の堀江泰子先生直伝のレシピだ。こちらのもち米は長細い。ついでに、小豆も長細くて、煮るのに時間がかかる。今日は、来客(義姉妹)のために、昨晩から心をこめて用意した。
①もち米6カップは洗って2時間以上水に浸け、作る1時間前にザルにあげる。
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②小豆3分の2カップは、一度沸いた水を捨て、柔らかくなるまで煮る。
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③大きな鍋に、小豆の茹で汁3カップ半を入れ、沸騰させてもち米を入れ、ねっとり するまで混ぜ、小豆を加える。この時塩を少し入れる。写真はまだサラサラな状態。
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④蒸し鍋に移し、25分強火で蒸かす。
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⑤はい、出来上がり!
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⑥お皿に盛って出しました。南天の葉は庭のものです。冬なので紅葉中!
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このレシピは作りなれると簡単だ。いやしかし…友達は何度教えても自分では作らず、私が作って持っていくのをひたすら待っている。店でも売っているが、どうも美味しくないので、ついつい作ってしまう。ブラジルでは、美味しいものを食べたいと思ったら作るしかないのだ。今日は、これに茶碗蒸しと天ぷらを作った。次はお好み焼きを所望された。お好み焼きだけだと、間がもちそうもないので、豚シャブもやりましょう!と全く関連性のないメニューを振舞おうとしている私である。夫の姉妹とは大の仲良しだ。結婚してからずっとお世話になっている。ここの暮らしも31年、彼女らのお陰で、どれだけ救われたことか。ご馳走を作って振舞うことくらい何でもないや・・・。次の「宴会」が楽しみ!

# by beijaflorspbr | 2007-07-02 05:18 | 料理レシピ | Trackback | Comments(4)
2007年 07月 01日

カローナで町へ

カローナ=人の車に便乗させてもらうこと。昨日は、娘の車に乗って、出かけました。娘の仕事場はPaulista通りです。そこに行く途中の道、República do Libano通りが私は大好き!右手にIbirapuera公園を見ながら、緑のトンネルをくぐるのです。私はサンパウロ市内でこの道が一番好き。
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駐車場に車を入れて、メトロで4駅で日伯文化協会のあるSão Joaquim駅で下車。徒歩5分ほどで、着きます。この建物の2階が、100周年記念行事の事務所になっており、私たちが取り組んでいるあしあとプロジェクトの部屋はこの中の一角にあります。
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重たい資料を受け取り、テクテクGalvão Buenoを上りながら魚屋さんで買い物。大好きなミツギのおじさんです。もう30年来のお付き合いになります。写真は、他のお客さんの買ったぼらです。立派な卵は、カラスミにできそうです。私はサーモンの刺身と切り身を購入しました。R$40,00(約2500円也)
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夕食は天ぷらパーティーの予定だったので、材料を山ほど買ってメトロに乗りヒーヒー言いながらBrigadeiro駅に戻り、荷物を車に入れ、娘の仕事が終わるまで、近くのPaulista Shopping Centerでウィンドーショッピングをしました。歩き疲れたので、お気に入りのCristalloでティータイム。可愛いシュークリームをぶつ切りにしたような洋酒の効いたお菓子を、Hortelã(ミント)のお茶とともに頂きました。ゆったりとお茶を楽しむ人々をウォッチング。ブラジルには美人がたくさんいます。たまにはこんなのんびりした時間もいいものですよね。
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帰宅後は、来客用に料理の準備で大童。天ぷら、サーモン押し寿司、刺身、茶碗蒸しをまたたくまに作りました。皆で楽しくワイワイ食べて、お酒を飲んで、楽しい時間を過ごしました。何となく夜中までハイテンションだったので、熱いシャワーを浴び、「船にみる日本人移民史」という本を読みながら休みました。
※余談…移民の入力ボランティアをするようになって、ポルトガル語入力を覚えました。チョロチョロやニョロニョロ、そしてアクセントや山など、日本語にはない表記が楽しくて結構嵌っています!

# by beijaflorspbr | 2007-07-01 03:32 | サンパウロ生活情報 | Trackback
2007年 06月 30日

石川 達三

 第一回芥川賞の受賞作になった石川達三の『蒼氓』は、ここが舞台になった。神戸港から旅立つ家族連れはいったんこの施設に移って、日本での最後の8日間を過ごした。ほとんどは故郷をすてた農民たち。期待と不安に揺れる思いを抱き、語り合い、やけ気味にふるさとの民謡を唄う。

 <1930年3月8日。神戸港は雨である。…三ノ宮駅から山ノ手に向かう赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。この道を朝早くから幾台となく自動車がかけ上がって行く。この道が丘につきあたって行き詰まったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建つている。是が「国立海外移民収容所」である>

 二十四歳の石川は「若気の至り」から、家族移民ならぬ単独移民として、九百五十人の移民団にまじってブラジルに渡った。目にしたその人たちの生活は厳しくも悲しい。「私はこれまでにこんなに巨大な日本の現実を目にしたことはなかった。そしてこの衝撃を、私は書かねばならぬと思った」。石川は後日『出世作のころ』で述懐している。

 <彼等のみならず殆どの全部の移民が希望をもっていた。それは貧乏と苦闘とに疲れた後の少しく捨て鉢な色をおびていた、それだけに向こう見ずな希望であった。最初この収容所に集まってきたときは、風の吹き溜まりにかさかさと散り集まってきた落葉の様な寂しさと不安に沈黙してきたが、日を啄うて海外雄飛の先駆者、無限の沃野の開拓者のように幻想するようになったのである>

 石川はこの小説で、貧しい暮らしのなかで、希望を見い出そうとする素朴な日本人を描いた。恋しい人に後ろ髪をひかれながらも弟にしたがっていく佐藤夏、「徴兵逃れ」という非難に身をひそめる弟の孫市。二人の主人公を含めた移民たちの多くは、事実上、日本から切り捨てられた「棄民」だった。だけど、うらみごとは聞こえてこない。

 移民を送り出した建物は神戸の山の手になじんでいた。昭和四十六年に移民業務が終わって神戸市に移管され市の看護学院となり、つい最近までは神戸海洋気象台の仮庁舎だった。船室を模した低い天井、むき出しの配管は建設当時のまま。外壁をはうつたが時代を感じさせる。

 出港の朝、移民の人々は靴ずれの痛みをこらえ、鍋や釜を手に港に向けて歩いた。突堤までの道は三ノ宮の繁華街を抜ける二キロ。坂道をくだると見え隠れしていた海は、ビルにさえぎられた。コンテナ貨物を積み下ろしする第三突堤が当時の乗船地だった。小学生たちが小旗をうち振り、歌って移民見送った埠頭。いまは釣り人がのんびり糸をたれていた。       石川達三「蒼氓」 名作の舞台より抜粋


今度の入力は、偶然にもこの石川達三の乗った、ラプラタ丸なのだ。1930年3月15日に神戸を出航、4月30日に、サンパウロのサントス港に到着した。後に第一回芥川賞を受賞する作品『蒼氓(そうぼう)』のモデルになった方々の資料を纏められるなんてこんなチャンスはめったにないだろう。950名分、どれくらい時間がかかるのか、忍耐勝負だと思う。頑張ろう!入力ボランティアを始めて約3週間で、もう既に2000人のデータを打ち込んだ。全移民18万人だからまだまだ完成までには道遠し・・・。

# by beijaflorspbr | 2007-06-30 12:40 | 移民&日系人 | Trackback
2007年 06月 28日

日本移民100周年記念事業あしあとプロジェクトに参加


日本からブラジルへの移民

ブラジルへの正式な移民は、1908年に神戸港を出港した笠戸丸に始まる。当時、土地が有り余るブラジルでは農業労働者が不足しており、日本の農村は貧しく、大日本帝国政府が海外への移民を奨励したものの、それまで最大の日本人移民の受入国であった米国における日系人に対する人種差別の激化と、それに伴う黄禍論の勃興などにより日本人移民の受け入れを実質禁止したこともあり、ブラジルが最大の日本移民受入国となった。日本人移住者の多くは、多くの移民船の最終目的地となったサントス港を外港とするブラジル最大の都市であるサンパウロ市周辺のコーヒー農園で働き、現在もサンパウロの日本人街「ガルボン・ブエノ通り」を中心とするサンパウロ周辺に日系人が多い。

第二次世界大戦ではブラジルは日本と国交を断絶し、日本語新聞や日本語学校を禁止した。戦後には、在留する日系人の間で、日本の敗戦を受け入れたものと受け入れないもの同士による分裂、いわゆる「勝ち組」と「負け組」の問題が発生した。戦後もアルゼンチナ丸などの移民船で移民した日本人は多い。移民総数は25万人に達し、その子孫である2世、3世は、その勤勉さと教育程度の高さから社会的地位が高い職業についているケースが多く、政・官界、経済界、医者、弁護士、教員、芸術・文化等を含む広範な分野に進出している。ブラジル及びラテンアメリカ諸国全体で見ても屈指の大学とされるサンパウロ大学の学生のうち、約15パーセントが日系人の子弟であるが、1パーセントに満たない日系人の人口比からみて、それがいかに高いものかがわかる(ただし、サンパウロ州としてみれば総人口に占める日系人の比率は2パーセント強であり、サンパウロ大学の本キャンパスが所在するサンパウロ市にいたっては総人口の5パーセント強は日系人であるという点、ブラジルの中でも日系人が偏在しているサンパウロ州周辺の南東部・南部地域が他の地域に比べ高等教育を受けやすい地域でもある)。現在は4世、5世も誕生し、完全にブラジル社会に同化している。
(ウィキペディアより)


1908年、最初の笠戸丸移民がブラジルに着く前は、ポルトガル・ドイツ・イタリア移民が投入されていましたが、コーヒーのサフラ(収穫高)に左右され、劣悪な扱いを受けたため、イタリア政府が、移民の全面禁止令を出しました。最初に入った移民の生活は、大変な過酷な労働条件だったようで、聞くたびに、涙なしでは聞けません。3年働いて、故郷に錦を飾るはずだった移民の方々ですが、故郷を出る時に、多額の借金を残しており、その返済もままならず、生活はちっとも楽になりませんでした。

私の夫の両親も移民でこの国に渡ってきました。舅は親がこちらに上陸してすぐに出生した2世、そして姑は12歳で福岡県から家族総勢で移住しました。両親は成人してから結婚し、6人の子供をもうけ、農業から野菜の仲買人、そして商店主(自動車のパーツ会社)に職を変え、子供を育てあげました。両親の自慢は、6人の子供たちに戦前戦後を挟んで、一流の教育をうけさせたことです。「教育は誰も盗まない」これが両親の口癖でした。現地のポルトガル語の教育に加えて、当時あった「大正小学校」という日本語学校にも通わせていました。今でいうダブルスクールです。そのお陰で、今でも6人の兄弟は、流暢な日本語を話します。両親の日本人としての誇りをかけた子育ては、私のお手本となっています。そのルーツを辿りたいと前々から強く思っていた私は、来年の日本移民100周年の「あしあとプロジェクト」に参加することにしました。笠戸丸(1908年)から戦後までの全移民18万人分の乗船名簿すべてをデジタル化するというプロジェクトです。これを発案したのは、数人の主婦の方々でした。今やらなくていつやるの?子孫の代まで誇れる先輩移民の記録を正確に残そうじゃないか、との発案で始められたプロジェクトです。完成目標は、来年の6月18日、移民100周年記念日です。

私が今取り組んでいるのは、1929年12月にサントス港に到着した移民の方々のリスト作りです。この頃には、もうパラ州(ブラジルの北、アマゾンの近くの過酷な地)に、日本移民が入植しているのです。今でも厳しい酷暑の地に、どのようにして日本移民の方々が根付いていかれたのか、大変興味があります。これからも、少しずつ着実に、この地道な作業を続けていきたいと思っています。

# by beijaflorspbr | 2007-06-28 00:56 | 移民&日系人 | Trackback
2007年 06月 26日

サンパウロの基本情報

国名 ブラジル  言語 ポルトガル語  首都 ブラジリア
通貨(円換算) 1レアル=39円(2012年8月現在) 1レアル=100センターボ
査証 必要(観光査証の滞在可能日数は90日以内)
時差 日本より-12時間 (但し夏時間はマイナス11時間)
電圧・周波数 127/220V 60HZ プラグ形状C・Aタイプ
飲み水 生水は避けること
気候/服装   1月 最高27℃ 最低19℃/夏服・半袖シャツ   
          4月 最高25℃ 最低16℃/夏服・半袖シャツ
          7月 最高22℃ 最低12℃/合服 (上着が必要)
          10月 最高25℃ 最低15℃/夏服・半袖シャツ
チップ 料金の10%
郵便 ハガキ:1.20レアル、封書:3.00レアル(10gまで) 営業時間 銀行:月-金10-16:30、
商店:月-金9-19土9-13(ショッピングモール:月-土10-22日14-22)
タクシー 屋根にTAXIがついており、流しをつかまえることも可能。料金はメーター制
おもな名所 大学都市、東洋人街、イビラプエラ公園
空港 グァルーリョス国際空港(GRU)は市内の北東25km(タクシー30分 エアポートバス45分)

地球のちょうど反対側に位置するサンパウロは、気候、時差、文化など全てにおいて、対照的だと思うこともしばしばです。一度に書いてしまうと、書くことがなくなりそうなので、小出しにしていくことにしましょう。写真は、サンパウロのLiberdade地区、赤い鳥居が目印です。ここにある商店には、ありとあらゆる日本食の材料が揃っており、私も週に1回は買い出しに出かけます。

# by beijaflorspbr | 2007-06-26 00:51 | サンパウロ生活情報 | Trackback