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2016年 09月 24日

苦戦中!!!

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錆び付いた頭に地図上の細かい字・・・聞き慣れない地名、モータリゼーションの影響で廃線したブラジルの鉄道を点で結ぶ作業は流石にひとりでは出来ないので、ジモティー(地元産まれ)のトリオさんの力を借りました。
「〇〇ってどこ?」(地名を読み上げる私)
「見えないよ」
「えっ?老眼鏡かけなよ」
「いや、ママの頭が邪魔で見えないんだよ…」
あ、そうか!(^◇^)失礼しました!!それにしてもブラジルは広い、その中のサンパウロ州もかなり広大です。さすがに人口4400万人を抱える巨大な州です。そんなこんなで久しぶりに頭の体操中。ま、広く浅くってことで勘弁して頂きましょう。日本人ブラジル移民の109年に渡る歴史に思いを馳せる日々が続いております。さ、もうちょっと頑張ろうっと。でも…ごはん作らなくちゃ。


by beijaflorspbr | 2016-09-24 22:39 | 移民&日系人 | Trackback | Comments(4)
2015年 09月 04日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑫お食事会&まとめ

平野植民地のお話を長々と続けてまいりましたが、今日で終わります。私は歴史の専門家でも何でもありませんので、詳しく知らないことが多い中で、自分自身のこれまでの勉強内容と事実を資料と照らし合わせながら書き続けた結果が12項目に及んでしまいました。もっと軽い気持ちでここに立ち寄られた皆さま、すみません。それでもいつかはここに平野の悲劇を書いておかなければならないと思っていましたので、漸く念願が叶いました。

さて、お寺の中での功労者表彰、記念品授与が終わり、ご来賓の祝辞も終わったようです。いよいよ祝賀パーティーに入ったのは、午後2時半少し前のことでした。来賓をメインテーブルとして、その後には平野にお住まいのファミリーの皆さま、そして近隣ノロエステ・リンス・プロミッソン・アラサトゥーバ等からの皆さまが席に着かれました。私たちは、リンスの上塚植民地の重鎮である安永さんファミリーのテーブルに潜り込ませて頂きました。上塚周平さんという方も「移民の父」と呼ばれる偉大な方ですので、次は上塚さんについても個人的に詳しく学びたいと思っています。さてまずはフェスタ会場へ…。こちらは古い会館ですが、今回の記念式典に間に合わせるべく、お隣に立派な会館を増築して大変広くなりました。驚いたのは、エアコンが完備されていたことです。
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すっかり待ちくたびれて駄々をこねる男の子、あまりにも可愛くて写真を撮ってしまいました。…と言うより、このドアが開くまでの待ち時間が長かった!
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漸く会館の中に入ることが出来ました。この時点でバス出発時刻まで40分。
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メインテーブルには総領事や文協会長などが着席されました。
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奥が増築した新会館です。招待客の間を縫って小まめに挨拶に回るカフェランジア市長。さすが政治家は違います。
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そしてカンパイしました。カンパイした途端に花火が打ち上げられ、お祝い気分が一気に盛り上がりました。
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お食事はサラダ、お肉などのビュッフェスタイルでした。
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取り急ぎ、お皿に頂いてきて大急ぎで頂きました。美味しかった!!
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慌ただしいお食事の後は、バスの時間が迫っていたので、慌てて荷物を纏めて平野を出発しました。平野の周辺には現在コーヒー園はなく、サトウキビ畑ばかりだそうです。
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Rodoviarioで待っていると、ほどなくサンパウロ行きのバスが滑り込んできました。午後3時半、我々を乗せたバスは、カフェランジアを時間通りに出発しました。
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座席はこんな感じでフカフカで実に気持ちが良いこと!前夜の寝不足と長時間の立ちっぱなしが祟り、相当疲れていたのか、死ぬほど眠れました。但し、後ろのおばちゃんが声を出して大声で下手な歌を歌い出すまでは…。イヤホンで聴いているうちに思わず歌い出してしまったと思われますが、静かな車内では明らかに迷惑行為でした。おまけに冬休みが終わる最後の週末だったためか、道路が大渋滞し、サンパウロには1時間半遅れの午後11時半に到着。
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この日は家族の家にお泊りをさせてもらったので、本当に助かりました。メトロ駅まで車で迎えに来てくれ、美味しい夕飯も用意してくれました。ありがたい…。前日の夜行バスで目的地に行き、祝賀行事に参加し、とんぼ返りという強行スケジュールでしたが、ギュッと100年間が凝縮したような心地良い時間を過ごさせて頂きました。平野にお住いの皆さまの温かいおもてなしの心をあちこちで感じ、終始幸せな時間を過ごさせて頂きました。碌にお礼も言わずに慌ただしく平野を後にしてしまったことを後悔しております。もし機会がありましたら、今度はお礼がてら平野運平さんのお墓参りもさせて頂けたら、と願っています。今度の行事にお誘いくださったKさんご夫妻に心から感謝いたします。

*平野植民地についての補足
《平野を支えた側近・山下青年について》
山下貞一青年…笠戸丸移民でブラジルに渡り、ファゼンダ・グァタパラに配耕され、当時副支配人だった平野から8日目に現場監督に抜擢されました。その後、尊敬する平野と共に行動を共にし、先発隊として平野植民地に入植しました。山下自身もマラリアを発症するも、九死に一生を得、マラリアで次々と亡くなった入植者の死亡届を一人で書き続けました。その後、同植民地の中心的存在として活躍。日本人会長、組合理事長を務め、1952年65歳で亡くなりました。山下の他にも、植田勘三郎、佐藤勘七らが平野遺志を引き継いで、その後も開拓事業に献身を重ね、大・平野植民地を完成、更に隣接地3,000アルケール(7,500ヘクタール)を増設して第二平野植民地の開拓を完成するなど、平野の遺志は同士によって継承されました。平野植民地25周年を迎えた1940年(昭和15年)には、100家族にまで回復しました。

《横溝一男の記録》
平野運平は背が低くてちょっと目が下がった好感の持てる人だった。30歳に満たない若輩にも拘らず、サンパウロ初の総領事・松村貞雄から支持を得たほど、真面目な芯の通った性格だった。犠牲者続出の中で、平野は狂ったように走り回り、病人を見舞い、遺族を慰め、知った限りの物心両面の援助を乞い、東奔西走した。平野運平は元々通訳としてブラジルに渡航したのであり、移民と言う訳ではなかった。しかし、その悲惨な最期を耳にした時、各地の移民たちは彼こそが自分たちの仲間であったと感動した。

《平野植民地の問題点》
◎無計画な集団地建設
◎無医村だった
◎原始林に入るのに、風土病の備えもしていなかった
◎風土病の危険は熟知していたものの、警戒が甘かったのは、平野の性格的欠陥によるもの

《教訓》
当時の邦人社会は、平野の大惨事によって移民事業を撲滅させることなく、むしろ『大惨事と再建に学ぶ』という受け止め方をした。そこに植民の歴史的位置づけがあろう。

《後説》
平野植民地では何故大量の犠牲者が生まれてしまったか。「マラリア説」「栄養失調説」「(当時流行った)パラチフス説」などがあり、他の病原と気付かずマラリア一辺倒の治療を施した。平野の事件から10数年後にブラジル入りした細江静男医師によると、「人々は悪性マラリアに黄疸を発したのではないかと言うが、自分は森林黄熱病ではないかと思う」と語った。

《最後のまとめ》
現在の平野植民地には12家族21人が残るばかりとなっていますが、平野運平氏の遺志を100年の間変わらぬことなく引き継ぎ、500人ものお客さまを招待して盛大な祝賀パーティーを催されたことに心からの感謝と称賛の言葉をお贈りしたいと思います。これはもう快挙としか言いようがありません。平野の皆さまの笑顔は本当にステキでした。『無償の愛』をところどころに感じることが出来、「日本人で良かった」「日本人ってすごいんだなあ~」純粋にそんな素直な気持ちになることが出来ました。サンパウロ市から長時間かけてでも、平野に行って良かったです。またこれからも、107年間の日本人ブラジル移民の歴史を紐解く作業を地道に続けて行くことが出来るよう、勉強に励みます。義両親の経験した炎天下の中、エンシャーダ(肢の長い鍬)を引きながらのコーヒー農園での厳しい労働で汗水流したお蔭で、現在の安定した暮らしがあると思えば、その心情や労苦に何とか報いたい気持ちが湧きあがってまいります。長々と続けてしまい、読みにくかったことと思いますが、お読み頂きありがとうございました。

【参考文献】
・輝ける碧き空の下で(北杜夫)
・日本移民80年史(ブラジル日本移民80年史編纂委員会)
・百年の水流(外山脩著)
・ブラジル日本移民小史(醍醐麻沙夫)
・ブラジル日本移民百年の軌跡(丸山浩明)
・移民の生活の歴史(半田知雄)
・ブラジルの歴史(佐藤常蔵)


by beijaflorspbr | 2015-09-04 21:22 | 移民&日系人 | Trackback | Comments(4)
2015年 09月 03日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑪軽食サービスと功労者表彰

厳粛な記念法要が終わりました。この時点でちょうど正午前、すると司会の方が「それでは・・・」いよいよ昼食!?と思ったら甘かった(笑)「カフェをご用意していますので、どうぞ召し上がってください」こちらのカフェというのは、ただのコーヒータイムというよりおやつタイムと言った方が相応しいのかもしれません。Coxinha(鶏肉のコロッケ)やKibe(挽肉と稗)を捏ねたコロッケやチーズコロッケなどがサービスされました。飲み物はコーヒーの他、良く冷えた清涼飲料水やお水等など…。
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行列を作って頂きました。このおやつもとっても美味しくて、2回お替りしてしまいました。どこまでも行き届いた平野の皆さまのおもてなしには感嘆するばかりです。
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お腹もいっぱいになってしまったところで、駐車場になっている運動場付近を歩いてみました。大草原が広がるこの辺は、全て平野の敷地内です。原始林を切り拓いたことがとても想像できませんでした。
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写真展もゆっくり見させて頂きました。1917年当初の事務所
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平野運平氏の貴重な家族写真、後ろが奥さんのいさのさんでしょうか?
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そして悲しい平野運平さんの葬儀の模様
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1938年当時の小学校。移民の中でも学校を一番に作るのは日本人だと言われていますが、当時としては画期的だったのではないでしょうか。
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30分ほどすると、もう一度本堂に戻ってくださいと放送がありました。今度は功労者への表彰式が続きました。
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途中で外に出て、モニターで中の様子を聞いていました。心地良い風が吹き抜けて本当に良い気持ち。最後にご来賓の歴々の祝辞が続き、漸く全ての行事が終わったのは何と午後2時少し前のことでした。
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午後3時半のバスに乗って、サンパウロに帰らなくてはならないのに、食事が出来るんだろうか?同行のK夫人と共にちょっと心配してしまいました。もう少し続きます。



by beijaflorspbr | 2015-09-03 23:16 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 09月 02日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑩100周年祝賀行事

中前総領事他、地元カフェランジア市長、市議会、連邦議会からもご来賓が来られ、盛大に祝賀行事が始まりました。
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まずは日本・ブラジル両国の国歌斉唱と国旗掲揚です。両国歌の演奏は何と、軍楽隊の生演奏で大変迫力がありました。
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異国の地ブラジルで苦労をしながら地に足を付けて頑張った先達の皆さまを想う時、やはり感動し、ぐっとこみ上げてくるものがありました。
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日伯の国旗が仲良く並びました。それにしても良いお天気に恵まれました!
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その後は、西本願寺の梶原総教長が入場されました。 
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鎮魂碑の前で一同が揃いました。
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代表者が献花献上をし、手を合わせます。
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その後新しく出来た石碑の除幕式が行われました。それにしてもすごい人また人…。皆それぞれが遠くから静かに見守っておられました。
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こちらが新しく建てられた石碑です。
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その後、会場を本堂に移し、100周年記念法要が始まりました。矢野宗門代表の法話が始まりました。「悲痛の血と汗水流して開拓をした偉業に対し、心からの経緯を表し、勇敢な指導者、祖人平野運平先生や幾多の先駆者の慰霊をしたい」(ニッケイ新聞記事より抜粋)
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その後、全員で焼香をしましたが、焼香の列は延々と続きました。
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法要の最後は梶原総長のご法話です。マラリアで多くの犠牲者を弔うためにこのお寺が建てられた謂れを話してくださいました。
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自らが思いをこめて作られた「いみんのうた」を歌ってくださいました。動画は2番からしか撮れず、お聞き苦しくてすみません。


1.ごねんか じゅうねん したならば
かならず かえると わかれたが
ことばも わからぬ やまおくでーヨオ
エンシャーダ ひけども かねはでず

2.ジット まぶたを とじたなら
おもいだすのさ なけるのさ
てがみを だそうと おもってもーヨオ
こんな ようすは かけません

3.あちら こちらと すみあるき
すこしの おかねも たまったあで
かえる きにも なったけどーヨオ
いまでは ふぼも とおいくに

4.ふるさと すてた じゃないけれど
いまでは こちらが ふるさとさ
しんのひとはな さかせてよーヨオ
みおやの じょうどで あいましょう

心にしみる歌でした、、、、。同じくブラジルに移民をしてこの地で逝った義父母にも思いを馳せ、感無量でした。続きます。


by beijaflorspbr | 2015-09-02 22:31 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 09月 01日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑨鎮魂碑にお参りする

速いもので今日から9月です。2015年も残すところ3分の1になってしまいました。私の人生残り時間はあとどれほどでしょう。誰もが知らない自分の寿命ゆえ、一日一日を大切に生きるしかないのかもしれません。私の身近なところで大事件が起こってしまいました。と言うのは、最近いつも足代わりに使っているメトロ駅から自宅へのバス路線で、真夜中に大型バス2台の焼き討ち事件が起こりました。予めバスの運転手とコブラドール(運賃回収係)と乗客をバスから下し、火を付け、ほどなくバスは全焼してしまいました。バスは1年未満しか使用していないほぼ新車でした。何故ゆえにこうした事件を起こすのか、あまりに無意味な犯罪です。軍警察官にファヴェーラ(スラム)仲間を射殺された報復と見られていますが、市民の足にまで攻撃を向けるとは何という不届き者なのでしょう。決して夜はバスを使わないようにしているものの、これからの足の確保も考えものなのかもしれません。景気が悪くなり、治安もどんどん悪化しているサンパウロですが、身の安全は自身の責任において確保するしかないようです。
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前置きが長くなってすみません。平野の続きです。少しずつ書き進めていますので、何項目にもなって読みにくいことと思います。一通り平野植民地内を歩いた後は、ちょうど真ん中にある立派な「鎮魂碑」の前にやってきました。マラリアや病気によりこの地でお亡くなりになった多くの方々の冥福を静かにお祈りさせて頂きました。
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偉大なる創始者平野運平さんの銅像です。
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平野運平さんの偉業を讃えて1993年に建立されたと書かれています。
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おまいりした後は、100周年を記念した写真展を見学しました。
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すると、「お腹空いたでしょう?どうぞカフェをあがってくださいな」との優しい声が…。ちゃんとお客さまのために朝食がたっぷり用意されていました。
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パンとチーズのサンドウィッチや…
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甘くて美味しいBolo(ケーキ)もたっぷりと!何よりびっくりするくらいコーヒーが美味しい。さすがです!!
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色々なところからどんどんゲストが到着されました。大型バスや乗用車、救急車にパトカーなど、その全ての方々に朝食が振る舞われます。
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どんどんご招待客が到着され、朝食会場が賑わってきました。たくさんの方々が召し上がっているのに、ちっとも減りません。係の方が、どんどん新しく作ったサンドウィッチを補充し続けておられました。
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午前9時から式典が始まるはずでしたが、主賓のご到着が遅れており、そのまま待機していました。記帳の列は長々と続きました。その中心で静かに笑っておられる鈴木和壽おじいちゃんの晴れ姿。ステキです!!
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「大変でしたでしょう?」「いや~過ぎてみれば何ということはないよ。」福岡出身で子どもの時にこの平野に入られたそうです。そしてこちらの平川秀雄さん(96歳)は、平野運平さんが亡くなった年にこの植民地で生まれた最も古い二世で、平野の生き証人です。
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平川さんは、この100周年の日を迎え「感無量、言葉になりません」と邦字新聞の記者さんにコメントをされた通り、この日の主役を務めておられました。平野を100年間守って来られた方々の頑張りには頭が下がります。
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「平野農村文化体育協会」というのがここ平野植民地の正式名称です。あちこちにこの幟が掲げられていました。朝食を終えて一休みしていると、パトカーに先導された中前サンパウロ総領事の公用車と、地元カフェランジア市長、市議会議長、連邦下院議員などの来賓が到着されました。いよいよ記念式典の始まりです。


by beijaflorspbr | 2015-09-01 22:39 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 31日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑧平野植民地に立つ

2015年8月2日(日)この日は記念すべき平野植民地100周年祝賀行事当日でした。早朝にカフェランジアに着いた我々は、平野植民地の敷地内へと案内されました。事務所兼管理棟のような場所に荷物を置かせて頂き、顔を洗って一応メイクアップ(笑)
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ちょうど辺りが明るくなり、朝日が昇り始めた頃、ちょっと外に出てお散歩をしてみました。たくさんのお祝いメッセージが家族単位で掲げられていました。『CENTENARIO COLONIA  HIRANO 1915-2015(平野植民地100周年)』の誇らしげな文字を見た時、胸が詰まり思わず涙してしまいました。
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この100年間という長い年月、ただただ平坦な道を歩んできたわけではない、マラリアで多くの犠牲者を出しながらもこうしてめでたく100周年を迎えたこの日、当事者である平野植民地の方々はどれほどこの日を待ち望み、準備に励んだことでしょう。現在の平野植民地には、12家族23人しか住んでおられません。こんな少人数で、この日良く500人もの招待客をおもてなしされたと感心するばかりです。
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すぐお隣には、立派なエタノール工場がありました。平野の方々は、この地を離れても決して土地は手放さなかったそうです。二束三文でブラジル人に農作物用の土地を貸していました。そのうち、ブラジルに一大エタノールブームが来て、一斉にcana-de-açúcar(サトウキビ)を植え始め、当然借地権も上がり、同植民地はどんどん潤って行ったという話をお聞きしました。
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こちらは、この平野植民地の要ともいえる「浄土真宗本派本願寺平安山光明寺」の立派な建物です。
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お寺もすっかり準備が整っているようでした。
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志半ばの34歳で亡くなられた平野運平さんもこの様子をきっと天国から見守っておられることでしょう。この写真はあちこちに飾られています。
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平野の長老、鈴木和壽さん(85歳)が温かく迎えてくださいました。
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隅々まで綺麗に整えられた敷地をゆっくりと見学させて頂きました。この地に立っていることすら、まるで奇跡のように思えました。
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広大な土地の中に、グランドのような広場がありました。この運動施設はかなり昔からあったようです。
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我々は午前6時過ぎには着いてしまったのですが、驚くほどたくさんの方々が来られて、おもてなしの準備に大わらわでした。このグランドを見学した時間がまだ午前7時。そろそろお腹が…(笑)続きます。


by beijaflorspbr | 2015-08-31 23:04 | 移民&日系人 | Trackback | Comments(2)
2015年 08月 30日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑦夜行バスでカフェランジアへ…。

おおよその平野運平さんの生涯を語り尽くしたところで、今度は私自身が平野植民地100周年祝賀行事に参加させて頂いた時のご報告をさせて頂きます。8月1日(土)の深夜、お友達のKさんご夫妻と共にMetro Barra Funda駅までやってきました。サンパウロ州内の中距離バスは、この駅から出発します。他にも長距離バスターミナルがあり、南部のサントス方面へ向かうバスはMetro Jabaquaraから、それ以外はMetro Tiete駅から出発します。ブラジルの国土は広大なので、何日もバスに乗って実家に帰る、と言う話を良く耳にします。その様子は、2010年NHKで「60万人の帰省ラッシュ~ブラジル・長距離ターミナル」という番組で放送されました。
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Terminal Rodoviarioの文字を追って行き、エスカレーターを降りるとバスターミナルがあります。既にCafelandiaの先のAracatuba行きのバスが停まっていました。
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私の乗ったバスは、23:30ピッタリにBarra Funda駅を出発しました。バスの座席はゆったりしており、快適そのもの…。
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前の板のようなものを手前に倒すと、悠々と足を伸ばすことができます。
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2時間おきにトイレ休憩があり、同じところで30分間バスは停まります。真夜中なので、1回目は起きたものの、後は前後不覚…。
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車内は当然のことながら静かで、バスもあまり揺れなかったので、死ぬほど眠れました。長年航空機で国際線の長距離移動に慣れているこの身には、6時間はやはりとても短く感じました(笑)あっという間にCafelandaに到着、時刻は午前5時半、辺りは真っ暗です。
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ここから平野植民地までは、車で約15分ほど。タクシーは早朝で一台もなかったものの、一緒のバスに乗っていらした邦字新聞の記者の方々のご好意で、迎えの車に乗せて頂くことが出来ました。38年間のブラジル生活で初めての日本人が開拓した移住地訪問でした。続きます。


by beijaflorspbr | 2015-08-30 23:04 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 29日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑥平野死す

いよいよ最大の悲劇が平野植民地を襲います…。

《平野運平34歳で逝去》
1919年(大正8年)苦労の連続だった平野も漸く前途に光明を見出し、平野植民地は希望に満ちていました。初めての綿花の大当たりが予想されたからです。しかし、平野運平自身は過労と心労のためか、健康状態がすぐれない状態が続いていました。大量犠牲者発生後「どうして眠られりょうか、あんなに人を殺してしまって…」と呻き、その苦しみから逃れるためピンガ(=カシャッサ→サトウキビから作られる蒸留酒)漬けの日々を送っていました。2月になると衰弱は甚だしく、当時の平野を知る人は「体はブクブクで顔は赤く腫れ上がっていた」と言っていました。最後は悪性のスペイン風邪に憑りつかれ、遂に2月6日にいさの夫人、実弟の彦平、多くの友人や植民地の同士たちに見守られ、僅か34歳の波乱に満ちた人生に幕を閉じました。平野の亡骸は、翌日全移住者の悲嘆と慟哭のうちに植民地内の新墓地に手厚く埋葬されました。1923年3月15日に平野運平の墓標が同地に建立されました。平野といさの夫人の間にはジョゼー(如是)という名の男の子がいました。後年いさの夫人は、平野の実弟・棒葉彦平と再婚をしたそうです。
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移民の利益を第一に考え、死に物狂いで奔走し、漸く植民を軌道に乗せたと思った矢先の突然のリーダーの死は、どれほどの衝撃を全移住者に与えたことでしょう。100年後の現在まで、平野植民地の居住者は誰ひとり「平野さん」とは呼びません。当然のように「平野先生」と偉大なる創始者のことを呼んでおられました。平野植民地100周年記念行事に出席させて頂いて、遺された方々がどれほどこの地を愛し、大切に守って来たかが分かりました。いよいよ明日から、私自身がカフェランジアにある当地を訪れた記録を書き始めさせて頂きます。  


by beijaflorspbr | 2015-08-29 20:30 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 28日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑤相次ぐ試練

平野植民地のお話の続きです。マラリアによって、数多くの同士を喪った平野植民地に更なる試練が次々と襲います。

《災害の連続》
1917年(大正6年)前年の分も合わせてコーヒーやミーリョ(とうもろこし)、フェイジョン豆も良く実り、豊作が予想された11月13日、一面に空を襲ったガファニョット(イナゴ)の大群が一瞬にして大切に育てた農作物を食い荒らしてしまいました。その時の蝗害(こうがい)は、線路に群がった蝗の脂で列車が動かなかったほど酷いものだったそうです。この年、平野植民地に住む80家族は僅か30家族に減っていました。
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《自然災害との闘い》
蝗の被害で大きな損害を被った同植民地は、1918年(大正7年)、今年こそはと意気込み、前年以上の出来栄えと言う喜びも束の間、肝心の収穫時に雨が全く降らず、干ばつに見舞われ収穫量は半減してしまいました。その上追い打ちをかけるように、6月の大霜で伸びかけていたコーヒーが全滅しました。コーヒーの木は霜には特に弱いのです。折角大切に育てたコーヒーの樹がたった一晩で枯渇してしまいました。しかしながら、この尊い経験から、霜害に遭った場所の地図に印を付け、二度と同じ場所に植え付けはしなかったことで、それ以降霜害に遭うことは二度とありませんでした。
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《平野を救った松村貞雄初代総領事の威徳》
当時平野には、地主に払う8コントスがどうしても不足していました。土地代として支払うお金を、全てマラリアの薬代キニーネや、医者代や入植者のための食料品購入に全てを使ってしまいました。平野は狂ったように金策に走り回っていましたが、それを知った松村総領事が、不足分8コントスを工面して平野を助けました。その貴重な8コントスは、松村夫人の臍繰りだったとも言われています。それから10数年の歳月が流れた入植20周年のおり、植民地に残る人たちが、日本に住む松村未亡人(松村総領事は既に死去)に、借りた8コントスに加え10コントスを返済しようとしたが、夫人は「平野植民地の今日の発展を遂げたことに、故人は無上の満足を感じていることでしょう。そのお金をお返し頂くのならば、何なりと平野植民地の公共事業にお使いくださいますよう」と返済を固辞しました。平野植民地の入植者は、松村総領事の美徳を永遠に顕彰することにし、『松村奨学金』と名付けその後の運営に生かしました。

続きます。


by beijaflorspbr | 2015-08-28 21:09 | 移民&日系人 | Trackback | Comments(4)
2015年 08月 27日

平野植民地100周年祝賀行事参加④平野困難な時代へ…

《相次ぐマラリアの襲来》
平野植民地へ移住した文野勝馬は、ドウラード河の上に杭を立て、小屋掛けをして住み始めました。内陸地にある平野植民地では、川の傍が一番涼しい場所だったからです。やがて雨期に入り、先発隊の蒔いた米が予想以上に伸び、マンジョッカ(こちらで出来るタロイモ)・フェイジョン豆・パウミット(ヤシの芽)などに飽きていた移住者たちは、稲の生育ぶりに希望を膨らませました。その頃から真夏だと言うのに、背筋がゾクゾクしたかと思うと、体が熱くなり滝のように汗が流れるという奇病に罹る人が多くなりました。一番症状が重かった文野夫人は、1916年(大正5年)の正月を迎える直前に息を引き取りました。正月を過ぎると、病気になる人々は益々増え続け、移住者の不安は増す一方でした。その頃、病気の原因がどうやらマレッタ(マラリア)ではないか、ということが分かったものの、奥地である植民地に医者や薬は皆無でした。

《マラリアの犠牲者》
1916年になると、マラリアで亡くなる犠牲者は増える一方でした。犠牲者たちは、最初の頃こそ棺桶に入れられ葬られましたが、次第に柳行李や漬物桶に至るまで棺桶の代用としました。その後、マラリアの薬、キニーネが僅かに送られてきたものの、犠牲者の数は増すばかりでした。

当時の惨状を表す記載が残っています。
『棺を造るのに板もなく人なく、死んだ愛児を柳行李に入れて泣く泣く埋葬した。夫の死骸を妻が背負って墓地に運ぶという悲惨さ』

これらの出来事は、ブラジル移民史上最も悲惨な出来事として今に語り継がれています。
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(1922年当時の平野植民地の区画割の図面が残されています)
《当時の平野運平の心情》
猛威を振るったマラリアも、5月の乾燥期に漸く下火になりましたが、マラリアの犠牲者は80人に及びました。(*犠牲者の数には諸説あり、64人とも言われています)その間も、平野は全地域の測量や地図割り、地主としての支払い交渉、移住者への激励と指導、経営事務などを懸命にこなしていきました。そんな平野も、一日に3人を葬った時は、男泣きに泣いたと言われています。平野自身もマラリアに襲われましたが、大事に至りませんでした。その頃から、苦しみから逃れるため、深酒をするようになったそうです。

漸くマラリアが沈静化し、落ち着きを取り戻したかに見える平野植民地ですが、災難はこれだけでは終わりません。明日に続きます。

★マラリアについて…熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症のこと。マラリア原虫ハマダラカによってを媒介される。マラリアを発症すると、40℃近くの高熱に襲われるものの、比較的短時間で熱は下がる。しかし三日熱マラリアの場合48時間おきに、四日熱マラリアの場合は72時間おきに繰り返し激しい熱に襲われる。脳マラリアの場合は、意識の低下、言語のもつれによる神経症状などの他、黄疸、脾臓肥大、低血糖、肺水腫などの症状が起き、死に至ることもある。


by beijaflorspbr | 2015-08-27 23:33 | 移民&日系人 | Trackback