ハチドリのブラジル・サンパウロ(時々日本)日記

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カテゴリ:両親を想う( 40 )


2017年 09月 23日

母の命日に・・・

母が亡くなって今日で11年。
ほんの昨日のことのように何もかも鮮明に覚えています。
日本の親戚から、一人暮らしの母が、脳梗塞を起こし
緊急入院をしたという連絡を受け、急遽航空チケットを取って帰国した私は、
翌日から母の看病に専念しました。
脳梗塞さえ克服できれば何とかなるか…の家族のささやかな願いも虚しく、
その後の精密検査で胃がんの末期だと宣告を受けました。
宣告されたのが7月末の暑い日でした。
「残念ですが、お母さまはお正月は迎えられないでしょう」
あの時の絶望感は今でも私をしばしば苦しめます。
「もっと早く気付いてあげたら・・・」
「何故母を守ることができなかったのだろう」
ああすれば、こうもすれば…自分を責めて責めて責めて…
終わりのない苦しみを経験し、今自分に出来ることを精一杯させて頂こう、
母との思い出が走馬灯のようにクルクルとエンドレスで頭に浮かび、
涙を流さない日は一日たりとてありませんでした。
そんな苦しい看病の日々も2006年9月23日午前1時13分で終わりを告げました。
終わったというより、終わってしまった、という表現の方が正しいかもしれません。
海外に住んでいた兄夫婦の帰国を待って、通夜・告別式を執り行い、
私たち兄妹がびっくりするくらい、たくさんの方のご会葬を頂きました。
今更ながら、母の偉大さを思い知りました。
会葬者の誰もが、威張っていた亭主関白の父を、陰で静かに支えていた母のことを皆正しく理解していたようです。
明日兄が在住国に帰るという静かな夜に、遺された兄妹二人で
「悔しいね、残念だね…」
といつまでも泣いていました。
母は12歳の時実母を亡くしていたせいか、子どもたちを甘やかす人でした。
甘やかされて育った我々は、少々頼りないものの、人に対する思いやりを持ち、
優しさや無償の愛を捧げることを母から学びました。
懐の大きな人で、没後弔電やお手紙にもそのようなメッセージがたくさん込められていました。
「お母さんに美味しいものをたらふく食べさせてもらったのが良い想い出になっています」
「貧乏学生で、食費にも事欠いている時に、たっぷりとお小遣いを頂いたのが嬉しかった」
等というメッセージは、最大の褒め言葉だったと思います。
我が家は誰でも自由に出入りできるようなオープンな家でした。
豪放磊落な父のせいで、母は随分苦労をしただろうな、と思います。
それでもしっかり父の意思に従い、最後まで父の妻として誇りを持って生きてくれたと思います。
そんな一人の女性としても、母としても素晴らしい母に追いつけ追い越せで
私もこれからの余生を送っていきたいと思います。
残念ながら76歳で人生を終えた母、母の年まで後12年。
私の余生がもし後12年しかないとしたら私は何がしたいんだろう?
命日の度にそんなことに思いを馳せます。
子どもたちのためにも私はもう少し長い生きしないといけないのかな?とも思っています。
人に必要とされる自分になること、自分らしく生きていくことこそが母への恩返しになるのかもしれません。
母に感謝!そんな一日にしたいものです。お母さん、改めてありがとう!!
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(季節外れですが、母の大好きだった紫色のクアレズメイラのお花)
もしお母さまがご存命の方は、今のうちに感謝の言葉を贈って差し上げてください。


by beijaflorspbr | 2017-09-23 18:00 | 両親を想う | Trackback
2017年 07月 07日

母のお誕生日に

今日は11年前に亡くなった母の誕生日、生きていたら87歳。きっと世間には87歳でもお元気なお年寄りは多いのでしょうね。面白いことに、昨晩亡くなったはずの父が、もう一度亡くなってしまうという不思議な夢を見ました。ずっと母を想うことは多かったものの、父の記憶はどんどん薄れていっているところに、「俺のこと、忘れるなよ!、」と言われているようで、改めて気持ちが引き締まりました。夢の中の私は、父の死を悼んでおいおい泣いていました。兄弟や親せきに連絡をしようと思うのに、なかなか電話が通じなくて困っているという夢を見ました。両親が生きている時は、親孝行が出来たのか?疑問ですが、今日は久しぶりに両親との思い出を反芻してみたいと思っています。
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短冊には「無事にブラジルまで帰れますように!」と書きました。本当はブラジルへの旅が秒読みなのに、荷造りも含めた用事がなかなか捗りません。年々体力が衰えていることを実感しています。だましだまし少しずつでも前に進まないと・・・・。でも、左肩がまだまだ痛くて…。


by beijaflorspbr | 2017-07-07 18:56 | 両親を想う | Trackback
2016年 11月 29日

父の命日

今日は新しい保険証が来たため、ふと思い立って書類の整理を始める。
母が大切に使っていたファイルには亡き両親の年金受領書や保険証、銀行の預金通帳などが大切に保管されている。
どうしても処分できずに置いていた書類の間からこんなものが出てきた。
亡くなった父へ、孫からのメッセージだった。
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「おじいちゃんへ」
わたしのことを ずっとかわいがってくれて ほんとうにかんしゃしています
どんなときにも まいにちいのってくれて ありがとう
あかんぼうのときに めんどうをみてくれて ありがとう
わたしは これからも がんばります
つらいできごとも うれしいできごともあるでしょう
わたしは ひとのちからになりたいです
そしてしあわせに なりたいです
パトより

「おじいちゃん」
エルだよ!!
おわかれにいけなくてすごくさみしい
よくがんばったね、
びょうきとたたかってくるしかったね
ながいたたかいだったね
おじいちゃん、ゆっくりやすんでください
エルはすごくさみしいよ
なつかしいよ
またあえるとおもっていました
でももうおじいちゃんがくるしまないように かみさまがよんでくれたんだよね
おじいちゃん かわいがってくれてありがとう
いろんなことをおしえてくれてありがとう
おいしいものをいっぱいたべさせてくれてありがとう
おじいちゃんのことはいっしょうわすれないよ
エルはりっぱな歯科医師になるため
いっしょうけんめいどりょくします
おじいちゃんに いればをつくれなくてざんねんだったね
おばあちゃんのめんどうをちゃんとみるからあんしんしてね
みんなをまもってください
わたしのだいすきなだいすきなおじいちゃん、ありがとう

(*・・・父の容体が急変して、急きょ帰国することになったため、全部ひらがなの手紙になってしまいました)
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ブラジルの孫からの手紙を棺に入れた瞬間、止めどなく溢れる涙を抑えることが出来なかった。
父がどれほど孫たちを愛し、可愛がっていたことを知っていたから。
でももしかしたら孫の書いたメッセージのように、「もうこれ以上苦しまないように神様が呼んでくれた」のかもしれない。
そう思うと、深い悲しみの中にも、少しだけ救われたような気持ちになった。
あれから12年、私もお兄ちゃんも随分年を取ったけれど、兄妹でずっと仲良くしていられることに感謝。
親の恩を忘れることなど絶対にないけれど、これからも両親のDNAを引き継ぐ子どもとして誇りを持って生きて行きたいと思っている。
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by beijaflorspbr | 2016-11-29 21:40 | 両親を想う | Trackback
2016年 10月 11日

父の誕生日

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今日10月11日は亡き父の誕生日。父は79歳で亡くなったが、もし生きていたら91歳!もちろん総長寿社会での91歳の方はたくさんおられることだろう。父は生前「男はな、太く短く生きるのがいいんだよ」と言っていた通り、太く短く自らの人生を全うしたのかもしれない。晩年は体が弱かったせいか、亡くなるまでの10年間は良く病気をした。ゆえに、私は何度も実家から呼び出しを受けて、慌てて飛行機に乗って帰国したものだった。若い頃は、学生を自宅にたくさん預かって食事をさせ、厳しくも正しい道へと導いていた姿が印象的だった。良く人の面倒を見て、あらゆる年齢層の方々から慕われた人でもあった。時には、家族よりその人たちの方が大切なのかな、などと焼きもちを焼いたこともあったっけ。父はとても頑固だったけれど、晩年はとても穏やかだった。入院中も、真っ直ぐ娘である私の顔を見て、自身の意思を精一杯伝えようとした。その目が今でも忘れられない。体を壊して、初めて父とゆっくり向き合うことが出来たのは幸いだった。最期の瞬間には間に合わなかったけれど、その目を閉じた安らかな顔に少しの安堵を覚えたものだった。亡くなってから、葬儀に参列された会葬者のあまりの多さと、頂いたお手紙やメッセージに父の偉大さを改めて思い知らされた。父が亡くなって早いもので、もう12年も経つが、未だに父を慕う方から私たち家族への心遣いを欠かさず送ってくださっている。家族のために精一杯働き、79年の人生を生き切った父を心から尊敬している。もし現在まで生きていてくれたらどんな想い出ができたんだろう?どんなおじいちゃんになっていたんだろう?お父さん、91歳のお誕生日おめでとう!!今では「あんたはお父さんに性格がそっくりだね」と言われることにささやかな誇りを感じているよ、お父さん。ありがとう!

by beijaflorspbr | 2016-10-11 22:00 | 両親を想う | Trackback
2016年 09月 23日

母を天国に送って10年(母の命日)

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ちょうど10年前の2006年9月23日午前1時15分、私の最愛の母は厳しい闘病を経て眠ったまま旅立ちました。天国という私たちがどんな手段を使っても決して行くことのできない遠い場所へ…。いつか誰もが必ず行く場所だということは分かっているものの、なかなか現実を受け止めることが出来ず苦しい時間が流れました。あまりの悲しみの深さに愕然とし、どうしても母を送る勇気がなくて、未練がましく「お母さん~帰ってきて~寂しいよ~」と誰もいない霊安室で泣きじゃくった日からもう10年。後でゆっくり考えると、実に多くの方々が私たちのために気持ちを寄せ、動いてくださったと言うことに気付かされました。ふとした時にまだ思い出してメソメソする日もあるし、夢に出てきたらホワっと温かい空気が流れる日もありました。色々な感情が交錯しながらももう10年が経ちました。めっきり体力も衰え、白髪も激増中のおばあちゃんになった娘のことを、再会した母は何と言うでしょうか。「あんた、もうちょっと身嗜みには気を配ったらどうなの?」と顔を顰めて言われるのは確実。母は、誰も来ない日でもちゃんと身嗜みを整えてお化粧までしていたんですから。スッピンの普段着で近所のスーパーへと走る誰かさんは、母からしたらきっと宇宙人に見えちゃうかも。ああ、改めてもう一度母に会いたい!ちゃんと言えなかった感謝の気持ちと、ほんの少しの親孝行が出来たらなあ~、おかあさん、改めてありがとう!車椅子を押すから一緒にお買い物に行こうよ!!

加筆…こちらはまだ9月23日(金)です。毎週金曜日は、買い物日なのでリベルダージに行って来ました。肩にずっしりと食い込むくらいの買い物を済ませ、いつものように徒歩で入ることが出来るコンドミニアムの入口へ。いつもならここに夫が車で迎えに来てくれるのですが、今日は同時刻に歯医者に行ったため、徒歩で帰宅しました。ポルタリアから自宅は1キロの距離。急に暑くなり直射日光も容赦なく照り付ける中、3袋の重たい買い物袋を抱えて帰宅した時は、あまりの疲れのため、しばらく座り込んでしまいました。買って来た鰹の刺身と豆ごはんと貝汁で一息。さすがに疲れたのか、お腹が落ち着いた途端にベッドへ入って久しぶりのお昼寝をしました。すると、何と夢に母が出て来てくれました。私がいつまでも母のベッドで寝て起きないので、叱られている夢でした(笑)困ったような顔の母は、私がグースカ寝ている傍でひたすらウロウロしていました。起きてみたら「あーやっぱり夢だったか・・・」ちょっと脱力してしまいました。でも久しぶりに会えた気持がして無性に嬉しい午後のひとときでした。
(中島みゆき『時代』)


by beijaflorspbr | 2016-09-23 09:29 | 両親を想う | Trackback
2016年 01月 30日

親を看取るということ・・・

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今日は少し重たい話ですので、More欄で続けさせて頂きます。


More

by beijaflorspbr | 2016-01-30 22:26 | 両親を想う | Trackback
2015年 11月 29日

あれから11年ー父の命日に

こんな少し寒くなりかけた時期に、私の父は息を引き取りました。父は若い頃から大変意欲的な人で、我が家には常に若い人たちが多く集まる家でした。人との和を重んじ、自分にも人にも厳しい人でした。また詩人でたくさんの詩も残してくれています。11年経っても父の声や姿は忘れるはずもありません。私は「おとうちゃん」っ子でしたので、おとうちゃんが大好きでした。
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晩年は色々な病気を患って最後の一年間はほとんど寝たきりでした。母も悪い足を引きずるようにして、父の面倒を見ていた姿が忘れられません。父の訃報を受けて、翌日サンパウロから帰国しました。あの時のフライトは本当に辛いものでした。帰国する時は、いつも両親が温かい笑顔で迎えてくれたからです。それが大きな喜びでした。でも今は帰国をしても迎えてくれる親はいません。生きているうちにもっともっと親孝行すれば良かった、後の祭りなのにそんなことばかりを思っています。命日は親を思い出す日、お父さん似の私は全力疾走で頑張っていますよ!お父さん、ありがとう。


by beijaflorspbr | 2015-11-29 23:42 | 両親を想う | Trackback
2015年 11月 08日

青竹冷酒の想い出と近況報告

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4日前からお友達の導きにより、岐阜県の名湯下呂温泉に宿泊した後、小京都高山をゆっくりじっくり散策。ここでとても良いご夫婦との出会いがあり、感動の旅となりました。後で詳しくご報告させて頂きます。

翌日は、三重県熊野市の世界遺産(個人)ツァーに連れていって頂きました。太平洋上から世界遺産を眺めるという究極の贅沢を体感させて頂く機会に恵まれました。但し、小さめの漁船だったことと、風が強く波が高くて揺れた揺れた。。万年飛行機の乱気流に慣れた私には楽勝でしたので、先頭でキャーキャー言ってはしゃいでしまい、呆れられましたが。。

そして4日目の今日は朝から生憎の雨、観光は到底望めないので、乗り鉄の本領を発揮し、三重県(出発地)、愛知県、東京都、埼玉県、栃木県、長野県、新潟県、富山県を在来線特急と新幹線などの列車で梯子し、最終的に石川県金沢市に降り立ちました。こんなことができるのは、みんなレールパスのお陰。午後3時まで食事も摂らず、みかん3個でひたすら我慢をしたのは、金沢市で富山湾の絶品お鮨を頂くためです。最初は金沢駅から近江町市場を目指して歩き出したものの、大雨で歩きにくく、困っていたところに、地場産の食材を使うお料理屋さんを偶然見つけて入ることにしました。
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その小綺麗なお店は、生憎カウンターしか空いていませんでした。それでも一人だし、次の列車の乗り継ぎ時間を1時間しか取っていなかったので、さっさと食べて駅に戻らないといけないし、ということで端っこに着席。ほどなく注文した特上鮨と青竹冷酒がきました。大きな九谷焼のお皿に盛られたお鮨はもちろん素晴らしかったのですが、何より感動したのが、青竹冷酒でした。
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亡くなった母が、お酒はそんなに呑めないくせに、いつもお酒を頼むのです。青竹冷酒があると、必ずと言って良いほど。。何か良い想い出でもあるのか、生前は何も思わず、ただただ母が頼んでくれたお酒をぐびぐび私がほとんどを飲み干していました。青竹の香りがほんのり移った純米酒の美味しかったこと!そんな想い出のお酒を今日久しぶりに飲むことができました。心の中で「お母さん、カンパイ。美味しいね、幸せだね、、、」なんて言いながら。母が好きだったお酒のことを思い出していたら、たまらなく母が恋しくなりました。亡くなった人は二度と会うことは出来ない、ということの悲哀を実感しています。最後に、カウンター越しに板前さんとお話をさせて頂く機会に恵まれました。香箱蟹が、一昨日解禁になったばかりだということ、今年の香箱蟹は身が詰まっていて美味しいということなどを話していると、小さな器に綺麗に盛られた香箱蟹を味見用にすっと出してくださいました。ぽん酢ジュレが何とも上品で食べやすく、お腹がいっぱいでなくて、電車の時間に余裕があれば、追加注文したかったくらいです。良く富山、高岡の居酒屋の大将、賢ちゃんが「昔子どもの頃のおやつは香箱蟹だったんですよ!」と言っていたのを思い出します。

今金沢から大阪に向かう道中です。4日ぶりに帰阪しますが、明日からはまた東北へ…もう少し日本を駆け巡ります。日本は完成された大人の国という気がします。人々はマナーをちゃんと守り、電車も時刻通りに運行されています。そんな居心地の良い、我が祖国にいるとブラジルに帰るのが少し辛くなるような気がします。でもきっと、期日がくれば当たり前のように飛行機に乗ってブラジルに帰ってしまうのでしょうね。長々とすみません。そろそろ新大阪駅に着きます。

by beijaflorspbr | 2015-11-08 18:19 | 両親を想う
2015年 09月 23日

母9回目の命日

9年前の9月23日、最愛の母は一人で天国に旅立ちました。重い病気を宣告されてから僅か2か月足らずのあっけない旅立ちでした。ブラジルから急ぎ看病に駆け付けた私は、夏の暑さに負けそうになりながら、時には精神的に限界を超えそうになり、睡眠導入剤などの処方をしてもらいながら辛い最期の日々を母と共に闘いました。母が息を引き取ったのは午前1時15分。まるでテレビドラマのように、モニターが一直線になるのを見ながら呆然と突っ立っているばかりでした。最愛の母とこんな惨い引き裂かれ方をして、私はいったいこの後どうして生きていけばいいんだろう。。。途方に暮れました。しかし唯一の兄夫婦は海外、まずは兄夫婦に日本に帰ってきてもらわなければ…。兄は兄ですぐに航空券の手配をし、ギリギリで一番速い便が取れたと連絡があり、ホッとしました。その後は、父が所属している組織の総務の方と、お通夜、告別式など詳細打ち合わせ。全国に散らばっているたくさんの親戚との連絡、部屋割りetc。。。大変なことが次々に私を襲ってきました。
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一連の行事が嵐のように去って、遺されたのは兄と妹の私のみ。早めの挨拶状と納骨、香典返しなどの作業を淡々とこなしていきました。全ての用事が終わって、明日兄が在住国に戻るという日
「悔しいね、悲しいね、寂しいね・・・・・・・・・」
いつまでも二人で静かに泣いていた夜の静けさは今でもよく覚えています。人生には幾多の試練があると言いますが、私の人生であんなに悲しく寂しかったことはありませんでした。身体が不自由で、晩年は大変だったにも関わらず、人への優しさを決して失わなかった母は本当に偉大な女性でした。母の直ぐ後を追っている私も、いつまで生きられるか分かりませんが、「今」を精一杯生きたい。

昨日、前日の歩き過ぎのつけが回ってきたせいか、お昼寝をしてしまいました。すると、夢の中に母が出てきました。最近見る母の夢は、いつもベッドに横たわっている姿で、弱々しく私に頼みごとをします。それでも会えただけで本当に嬉しい。夢の中でしか会えなくなってしまいましたが、お母さんは永遠に私のお母さん。この母の娘で良かった、などと一人で思っていました。柔らかい光の向こうには、父や母がいるんだなあ~と心から思える今日この頃。おかあさん、ゆっくり休んでいますか?おとうさん、おかあさんに我儘言っていませんか?


by beijaflorspbr | 2015-09-23 20:10 | 両親を想う | Trackback
2015年 07月 07日

母のお誕生日

こんな空を見ると、この雲の先に最愛の母がいるのではないかと思ってしまいます。
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1996年に亡くなった私の最愛の母は7月7日、七夕の日に生まれました。
激動の昭和を父と共に駆け抜け、力尽きて永眠するまで76年の生涯を精一杯生き抜きました。
良く死んだ子の年を数えると言いますが、
私の場合は、両親の誕生日の度に生きていたら〇〇歳と数えてしまいます。
母が生きていたら今年で85歳。
平均寿命前に旅立ってしまった母を想い
どれほど涙したことでしょう。
どんなに泣いても母は帰って来てくれないので、せめて今日は母を想う日にしたいと思います。
おかあさん、お誕生日おめでとう!聞こえていますかーーー?
親はいつまでも元気ではいられません。
生きているうちにご両親に感謝の気持ちを伝えることをお勧めいたします。


by beijaflorspbr | 2015-07-07 23:35 | 両親を想う | Trackback