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2017年 03月 04日

追悼:料理研究家 堀江泰子先生

※昨日の午後、料理研究家の堀江泰子先生が亡くなられたことは、ご逝去直後に堀江家からお知らせを受けて知っておりました。ただ、堀江先生は料理界の草分け的存在で有名人でもあられるため、マスコミ発表を待ってからこの記事を書こうと決意していました。

昨日の午前中、一通の悲しいお知らせが移動中の私のスマフォに届きました。発信元は孫のさわちゃん(料理研究家ほりえさわこさん)でした。「ひな祭りの日に旅立つ紫姫(紫色が大好きな先生のニックネーム)なんてカッコイイよね~」の通り、誰もが決して忘れらない日に旅立たれてしまった堀江泰子先生。ずっと恐れていた、この日が遂に来てしまいました。94歳ですし、晩年はご病弱でいらしたのでこの日が来ることは誰もが覚悟の上だったことでしょう。しかし…何でしょうか、この言葉に出来ないほどのたまらない寂しさは…。先生の存在は、私にとっては恩人以上の重みがあったように思います。少しだけ泰子先生との思い出を語らせてください。
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(堀江家の珠玉のレシピばかりが掲載されている貴重な一冊)

堀江泰子先生とのご縁を頂いたのは、今から46年前の私がまだ18歳の時でした。東京の短期大学2年生の時、ある事情から突然下宿を出なくてはならなくなり、友人の紹介で学業の合間に家事を手伝ってくれるなら、という好条件で堀江家に1年間居候をさせて頂くことになりました。当時はまだ右も左も分からずに、ポンと堀江家に入り戸惑うことばかりでした。当時の堀江家は、旦那さまが地方に単身赴任中で、泰子先生やご家族は東京に住んでおられました。私の役割は先生の身の回りの世話係も兼ねていましたので、先生ご夫妻のお部屋で先生と一緒にお布団を並べて毎晩寝ていました。後で良く先生に言われたのは「旦那さま以外の人と布団を並べて寝たのはハチドリちゃんだけね」と。泰子先生は、年々テレビや雑誌や料理講習会などのお仕事が忙しくなってきて、早朝から深夜まで実に良く働かれていました。娘さんのひろ子さんもその頃から次第に名前が出て、助手として大活躍をされていましたが、何と言ってもこの時代に中心となって活躍されていたのは泰子先生でした。今思えば当時40代後半の働き盛りでいらしたのですね。先生はご家族やお弟子さんたちにも妥協せず、常に厳しく接しておられました。一番下っ端の気弱な私は、叱られて良く物陰で泣いていたものでした。それまでの甘く緩い生活からいきなり厳しい生活への変化を受け止められず、真剣に堀江家を出ようかと悩んだ時期もありました。そんな切迫した状況の私を変わらず優しく支えてくださったのが、泰子先生のお母さま、静江おばあちゃまでした。静江おばあちゃまは、毎朝6時に階下から「ハチドリちゃん、おはよう。起きている?」と優しく起こしてくださり、広い家中のお掃除が終わった頃、滋養ある朝食を整えて待っていてくださいました。今もその時の朝食の味は忘れたことがありません。堀江家においてのおばあちゃまの存在は実に大きいものでした。次々に孫が生まれると、80代を超えた静江おばあちゃまが面倒を見ていた時期もありました。「ぼやっとしていると、泰子に怒られるから。。。」と堀江家ではこのように、何歳になってもそれぞれの役割分担があり、「疲れたから」とか「もう年だから」などという甘えは一切許されませんでした。堀江家で実に刺激的な1年を終え、社会人になって初めて堀江家での一年間は何ものにも代えがたい貴重な日々だったのだということが分かりました。お料理の補助作業や下準備だけではなく、買い物の仕方、電話の応対、お客様のお接待、気配りや身の回りのこと、庭の手入れまで。若干20歳前の私が到底得られない貴重な基本知識を学ばせて頂いたのも堀江家でした。堀江家は、私にとっての原点といっても過言ではありません。堀江泰子先生ご自身も、厳しいだけではなく気配りを欠かさぬ優しい先生だと分かるまでに、そんなに時間を要しませんでした。堀江泰子先生は、人にも厳しい分、自分にも高い目標を常に課しておられました。
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(泰子先生直伝のお赤飯は今や十八番に)

私が縁あってブラジルに嫁いでからも、堀江家との深いご縁はずっと続きました。堀江先生の旦那様が国会議員になられてからの海外視察旅行で一度、プライベートで一度、ブラジルにも来てくださいました。大好物の「たねや」さんの最中を携えて、わざわざ会いに来てくださった時は、本当に嬉しかったです。私たちが気に入っていた高級ポルトガル料理のレストランにご案内すると、飲めないワインを少しだけ嗜んで、上機嫌で頬を赤くされた泰子先生の笑顔を今でもはっきり思い浮かべることが出来ます。その時、ほんの少しだけ親孝行の真似事ができたかな?と思った瞬間でした。私が帰国した時は、可能な限り成城のお宅に会いに行くようにしていました。
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(堀江先生に教えて頂いた我が家のおうちごはんの数々)

最後にお目にかかったのは、昨年の12月2日のことでした。ここ数年、会いに行ってもご入院中だったこともありましたが、そんな時は病院までひろ子さんに連れて行って頂き、無事にお会いすることが出来ました。12月2日はご自宅で旦那さまと二人揃って笑顔で迎えてくださいました。「ハチドリちゃん、私はね、死ぬことは怖くないけれど最期まで堀江泰子として立派に生きたいの」とびっくりするくらい力強く仰ったのは忘れることができません。「料理研究家1代目は堀江泰子、2代目は堀江ひろ子、3代目はほりえさわこ。そう決めたの」とも。4代目は?とお聞きすると「もえ(さわこちゃんの長女)かな?」と。料理研究家として有名な先生ですが、弟子の私から言わせると、「常に努力を惜しまない方」だったように思います。あれは80歳を悠に過ぎた頃だったか、机に本を置いて真剣なお顔をされていました。「先生、何をしていらっしゃるのですか?」と訊く私に「ハチドリちゃん、お料理というのはね、もうこれで良いということはないの。レシピもどんどん研究をして改良して行かないといけないのよ」と。既に完成されたように思っていた堀江家のレシピも、こうした日々の研鑽によって作りあげられていることを初めて知ったように思いました。とにかく当たり前のようですが、堀江家のお料理は全てが美味しいのです。そんな陰に、こうした先生やひろ子さんたちのたゆまぬご努力があったのだと知りました。晩年は、お料理教室をひろ子さん、さわちゃんに任せて奥におられることが多くなりましたが、お味見の時は旦那様と共に生徒さんの前に顔を出して、笑顔で見守っておられました。最後にお会いした昨年の12月2日も、しっかりクリスマス用のお料理を美味しそうに召し上がっておられました。家庭料理を人に教えるという世界では草分け的な堀江泰子先生ですが、元々娘時代はお料理が全く出来ずに、困り果ててお知り合いの料理研究家のところに通い詰めた、というご経歴の通り、元々秘めた才能とやる気のある方だったのだと思わされます。「家族のために、人のために美味しいお料理を作って喜んで頂くのは家庭料理から…」との揺るぎない方針で、多くの方々を指導された堀江泰子先生の94年の生涯に、心からの拍手を贈らせて頂きます。

天国に昇られた泰子先生へ
遂にお別れの日が来てしまいました。先生は「ハチドリちゃん、お葬式には来なくて良いけれど、生きているうちに私にたくさん会いに来て!」と仰いました。私はちゃんとそのお約束を守って、帰国時には最優先して何度も先生に会いに行きましたよね。これが最後になるかもしれない、なんていうことは一度も思ったことはありませんが、12月2日が本当に最後になってしまったのですね。でもね先生、私は先生の教えの通り、今もお料理が大好きで、得意で、たくさんの方に喜んで頂いていますよ。先生が広く伝えてこられた「家庭料理こそ一番の宝物」という精神は、これからもずっと私の心の中に生き続けると思うのです。堀江泰子という私が尊敬してやまない一人の偉大な女性とのご縁を頂けたことを誇りに思っています。泰子先生が、辛いご闘病生活から漸く開放されて、痛みや苦しみのない世界へと旅立たれたことに、ほんの少しだけの安らぎを感じています。残念ながら告別式には参列できませんが、次の帰国の際に真っ先にお参りに行かせて頂きます。今頃静江おばあちゃまや妹さんと久々の再会を果たされているのですね。静江おばあちゃまも喜んでおられるでしょう。どうか、安らかにお眠りください。遠くブラジル・サンパウロより、心からのご冥福をお祈りしております。
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(昨年12月2日最後に撮影した泰子先生のお写真です…涙)
泰子先生、46年間の長きに渡り、本当にお世話になりました。ありがとうございました!


by beijaflorspbr | 2017-03-04 21:18 | 人生 | Trackback