ハチドリのブラジル・サンパウロ日記

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2015年 08月 26日

平野植民地100周年祝賀行事参加③平野運平自作農への目覚め

本当はもう少し軽く読める記事の方が書きやすい上ページビューも伸びるのですが、自身に関わる人たちのルーツを辿りたいのと、ライフワークの資料として書き残したく、移民初期のお話を続けさせて頂きます。興味がない方は遠慮なく読み飛ばしてください、とはいえこのお話しはもっともっと続くことになりますので、予めご了承くださいませ。膨大な資料の中から纏めた資料なので、抜け落ちている点も多いことは自覚しております。では平野運平さんの生涯の続きを始めます。

《平野運平 ファゼンダ・グァタパラ時代》1908年(明治41年)-1915年(大正4年)
コーヒー農園のあるファゼンダ・グァタパラでの平野の活躍ぶりは突出していました。移民たちの通訳を務めると同時に、上司である支配人ジョゼ・サルトリオからの信頼も篤く、副支配人に任命されました。平野は移民たちの利益を考え、ファゼンダ内にある売店の法外な値段の商品を買わなくても済むように、外部でまとめて安く購入し、搬入することを上司に認めさせました。他のファゼンダに配耕された移民たちが契約前に次々と紛争や逃亡を図る中で、ファゼンダ・グァタパラだけは落伍者がほとんど出ませんでした。平野は副支配人として、移民たちの利益を第一に考え信頼しました。また紛争が起きないように、不穏分子の首謀者をファゼンダから追放する措置を講じた上で、移民たちを外部と触れさせず、手紙も検閲し、ファゼンダに不利益をもたらすものは没収するという徹底ぶりでした。その結果、第一回移民88名、第二回移民233名と入植者はどんどん増え続け、一時は4~500家族にまで達し「平野王国」を形成しました。平野は、ファゼンダの仕事と兼任で、その後独立したジョゼ・サルトリオ所有のファゼンダのコーヒー40万本の植え付けと栽培を4年契約で引き受けました。これは大規模な請負農を始めた日本移民初のケースになります。
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《平野植民地建設の経緯》
平野運平は、1915年(大正4年)当時の松村貞雄初代総領事と面会し、初の日本人植民地を建設するよう依頼を受けました。松村総領事は、着任以来移民の在り方をみて、どうしても日本人を土地保有者にしなければならないと思い、その先駆者として白羽の矢を立てたのが平野運平でした。
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アリアンサ通信さんより画像をお借りしました)
《平野植民地の場所とその規模》
ノロエステ線バウル―を経てプレジデンテ・ペンナ駅から東北に13キロ奥(現在のカフェランジア市)へ入った原生林一帯、ドウラード川を基点として東に9キロ南北約4キロ半の土地、1,626アルケール(約6,000ヘクタール=約6,000,000km²)を購入し、1単位を25町歩(1町歩は約3,000坪)に区切り、希望者に分譲しました。当時のコーヒーコロノ(農民)4人家族ならば、毎月10町歩を楽に買うことができましたので、新天地で自立農を夢見る入植希望者は、2百数十家族に及びました。

《先発隊、現地へ》
平野運平は、1915年(大正5年)8月3日に先発隊20名の青年を現地に送り出しました。まずドウラード河の対岸地に仮小屋を作り、本部を設営しました。川に拘ったのは、飲料水確保と日本人には不可欠の稲作を強く意識してのことでした。川縁の山を切り拓き、米を蒔き付けました。一方仕事に身の入らない移民たちは、ファゼンダ・グアタパラに罰金を払い、12月までに82家族が新植民地に入植をしました。このうち2家族は、ドウラード河向こうの僅かな開墾地に小屋を建てました。この土地こそが、最初はブラジル人が、次いでスペイン人が開拓に手を染めたものの、悪性マラリアのために逃げ出した曰く付きの土地だったのです。

続きます。


by beijaflorspbr | 2015-08-26 22:41 | 移民&日系人


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