ハチドリのブラジル・サンパウロ日記

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2013年 03月 11日

東北を想う・・・

3.11に思うこと&被災地の方々への応援メッセージ!

あの日、私は東京にいました。震度5強という生まれて初めての激しい揺れにいよいよこの世の終わりかと思いました。グラグラ揺れる中、お隣にいらした86歳の元気なおじいちゃまと手を繋ぎ、お話をしながら心を落ち着かせていました。おじいちゃまは「日本はな、政治家がグラグラ揺れているからこうやって地面も揺れるんだよ」と。おじいちゃまの安全を確認後、お別れしをした後大きな余震が再び東京の地面を揺らしました。上野のデパート脇にある小規模広場でひたすら揺れの治まるのをひとり心細く待ちました。電話は通じないし、何もニュースが入らない中、防災センターからのお知らせで「東北地方で大きな地震がありました」との第一報が入りました。「ああ、東北が震源地なんだ。。。それにしても遠く離れたこの地東京でこんなに揺れるとはただ事ではないな」と思いました。同時に大阪はどうなったんだろう?とその時点ではただただ情報が入らないことに苛立ちを覚えていました。

それからは無我夢中で当初の目的地である御徒町の職人さんの工房を目指しました。道中、色々な会社やビルからヘルメットを被って避難する大勢の人々を目撃しました。近くにいた仲の良さそうなご夫婦が「ねえ、お父さん。家のガスの元栓切っていないんだけど大丈夫かしら?心配だわ・・・」「とにかく急いで帰ろうよ!」と。しかし電車は微動だにせず、何時間も止まったままでした。職人さんに荷物を預け、取りあえず近所のコンビニで手当たり次第に食料品を買いました。食パン、菓子パン、チーズにカップラーメンなどなど。お腹が空くと益々不安になります。結局はこの私の調達した食料品が、一晩工房で過ごした職人さんを始め5人分の貴重な食料となったそうです。

その後私は至近距離にある知り合いの家を目指しました。ビルの8階に住む彼女を訪ねると電気も点いているし鍵も開いているのに誰もいません。何度か声を掛けてみたものの、家の中に入る気にはとてもなれず延々階段を下りて工房へと引き返しました。諦めきれずにもう一度今度は職人さんに付いて行って頂き、再度8階まで…。そうすると下からMちゃんの賑やかな声が聞こえてきました。何と、あまりの激しい揺れに恐ろしくなって一時避難をしていたそうです。その晩は見ず知らずの女性3人でそのまま泊めて頂き、暖かい食事に大福まで頂いてテレビに流れる恐ろしい映像を震えながら見つめていました。朝まで余震はずっと続き、8階の部屋は本当に良く揺れました。やっと寝たと思ったら余震、起きては寝てまた余震と。その間何度も何度も携帯のメールを受信するバイブが鳴り響きまた起きるという繰り返し。こちらからの発信は全く出来ない状況が家族(当時大阪、アメリカ、ブラジルと点在していた)や友だちを益々不安にさせたようでした。何もかもが異常で緊迫感の連続で、不安と哀しみの底に沈むような暗澹たる一日でした。

翌朝、ほとんど眠れないままMちゃんに、前夜までお泊りをさせて頂いていたOさんのお宅に荷物を取りに帰らないといけないからと告げ、お礼を言って一晩お世話になったビルの8階を後にしました。お友達のお宅に着いた午前6時には、ご主人さまと二人で壊れたガラスを片付けているところでした。暖かく美味しい朝食を頂き、シャワーを浴びてサッパリした後、お礼を言ってOさんご家族に見送られつつお宅を後にしました。その日の午前中に、大井町でお仕事をした後、正午には銀座でお友達とランチを予約していました。後のランチはもちろんキャンセルをしたものの、大井町のお客さまは「いつでも来られる時に来てね」と優しく仰ってくださったので、急いで大井町に向かいました。ところが、度重なる余震で、渋谷からの山手線は「安全確認」と言って電車が全く動いてくれません。結局満員電車に揺られ12時半に大井町のお客さまのお宅に到着しました。Nさんは、その前夜にご主人さまをお迎えに行って帰宅が明け方の4時だったとか。渋滞に巻き込まれ大変な一日を過ごされたようでした。

用事を済ませた後、大井町から急ぎ羽田空港に向かいました。午後7時過ぎの伊丹空港行きを予約してあり、かなり時間はあったもののラウンジでゆっくり待てばいいか、思ったからでした。JALカウンターに行くと、「お客さまの搭乗便を早くさせて頂いてもよろしいですか」と「もちろんOKです。できればなるべく早く大阪に戻りたいです」というと3時間も早い4時の便に変更してくださいました。元は特割1という変更のできないチケットでしたが、緊急事態とのことで早く乗せてもらった時はさすがにホッとしました。搭乗口で待っている時に、もう一度大きな余震がありました。航空機の中に入り、羽田を離陸した時には何故か涙がこぼれて仕方がありませんでした。あまりの衝撃と壊滅的な被害を出したこの大震災と津波のあった東北に思いを馳せ、その時は不安で不安でたまりませんでした。

東北方面は、父が長年赴任しており、友人知人の方もたくさんおられます。震災後、行方不明だった方々の消息が次々に分かり、陸前高田の同級生のHも奇跡的に助かったと聞き、絶望の中に希望を見いだしたものでした。このままではいけない、何かしなくては…遠く離れたこのブラジル・サンパウロの地で「ブラジルを知る会」の仲間と共に立ち上がりました。2011年、2012年、2013年と連続3年「東日本大震災復興応援バザー」をサンパウロの地で開催し、多くの賛同者を得てバザーは大成功しました。どんなに地理的距離があろうと、私たちはいつも東北の皆さまとともにあります。出来れば継続して復興のお手伝いが出来ればと強く願っています。一緒に頑張りましょう!

今回の震災、津波で犠牲になられた多くの方々のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌

by beijaflorspbr | 2013-03-11 02:25 | 日本


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