2015年 08月 31日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑧平野植民地に立つ

2015年8月2日(日)この日は記念すべき平野植民地100周年祝賀行事当日でした。早朝にカフェランジアに着いた我々は、平野植民地の敷地内へと案内されました。事務所兼管理棟のような場所に荷物を置かせて頂き、顔を洗って一応メイクアップ(笑)
ちょうど辺りが明るくなり、朝日が昇り始めた頃、ちょっと外に出てお散歩をしてみました。たくさんのお祝いメッセージが家族単位で掲げられていました。『CENTENARIO COLONIA  HIRANO 1915-2015(平野植民地100周年)』の誇らしげな文字を見た時、胸が詰まり思わず涙してしまいした。
ただただ平坦な道を歩んできたわけではない、マラリアで多くの犠牲者を出しながらもこうしてめでたく100周年を迎えたこの日、当事者である平野の方々はどれほどこの日を待ち望み、準備に励んだことでしょう。現在の平野植民地には、12家族23人しか住んでおられません。こんな少人数で、この日良く500人もの招待客をおもてなしされたと感心するばかりです。
すぐお隣には、立派なエタノール工場がありました。平野の方々は、この地を離れても決して土地は手放さなかったそうです。二束三文でブラジル人に農作物用の土地を貸していました。そのうち、ブラジルに一大エタノールブームが来て、一斉にcana-de-açúcar(サトウキビ)を植え始め、当然借地権も上がり、同植民地はどんどん潤って行ったという話をお聞きしました。
こちらは、この平野植民地の要ともいえる「浄土真宗本派本願寺平安山光明寺」の建物です。
お寺もすっかり準備が整っているようでした。
志半ばの34歳で亡くなられた平野運平さんもこの様子をきっと天国から見守っておられることでしょう。この写真はあちこちに飾られています。
平野の長老鈴木和壽さん(85歳)が温かく迎えてくださいました。
隅々まで綺麗に整えられた敷地を見学させて頂きました。この地に立っていることすら、まるで奇跡のように思えました。
広大な土地の中に、グランドのような広場がありました。この運動施設はかなり昔からあったようです。
我々は午前6時過ぎには着いてしまったのですが、驚くほどたくさんの方々が来られて動き回っておられました。このグランドを見学した時間がまだ午前7時。そろそろお腹が…(笑)続きます。


# by beijaflorspbr | 2015-08-31 23:04 | 移民&日系人 | Trackback | Comments(0)
2015年 08月 30日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑦夜行バスでカフェランジアへ…。

おおよその平野運平さんの生涯を語り尽くしたところで、今度は私自身が平野植民地100周年祝賀行事に参加させて頂いた時のご報告をさせて頂きます。8月1日(土)の深夜、お友達のKさんご夫妻と共にMetro Barra Funda駅までやってきました。サンパウロ州内の中距離バスは、この駅から出発します。他にも長距離バスターミナルがあり、南部のサントス方面へ向かうバスはMetro Jabaquaraから、それ以外はMetro Tiete駅から出発します。ブラジルの国土は広大なので、何日もバスに乗って実家に帰る、と言う話を良く耳にします。その様子は、2010年NHKで「60万人の帰省ラッシュ~ブラジル・長距離ターミナル」という番組で放送されました。
Terminal Rodoviarioの文字を追って行き、エスカレーターを降りるとバスターミナルがあります。既にCafelandiaの先のAracatuba行きのバスが停まっていました。
私の乗ったバスは、23:30ピッタリにBarra Funda駅を出発しました。バスの座席はゆったりしており、快適そのもの…。
前の板のようなものを手前に倒すと、悠々と足を伸ばすことができます。
2時間おきにトイレ休憩があり、同じところで30分間バスは停まります。真夜中なので、1回目は起きたものの、後は前後不覚…。
車内は当然のことながら静かで、バスもあまり揺れなかったので、死ぬほど眠れました。長年航空機で国際線の長距離移動に慣れているこの身には、6時間はやはりとても短く感じました(笑)あっという間にCafelandaに到着、時刻は午前5時半、辺りは真っ暗です。
ここから平野植民地までは、車で約15分ほど。タクシーは早朝で一台もなかったものの、一緒のバスに乗っていらした邦字新聞の記者の方々のご好意で、迎えの車に乗せて頂くことが出来ました。38年間のブラジル生活で初めての日本人が開拓した移住地訪問でした。続きます。


# by beijaflorspbr | 2015-08-30 23:04 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 29日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑥平野死す

いよいよ最大の悲劇が平野植民地を襲います…。

《平野運平34歳で逝去》
1919年(大正8年)苦労の連続だった平野も漸く前途に光明を見出し、平野植民地は希望に満ちていました。初めての綿花の大当たりが予想されたからです。しかし、平野運平自身は過労と心労のためか、健康状態がすぐれない状態が続いていました。大量犠牲者発生後「どうして眠られりょうか、あんなに人を殺してしまって…」と呻き、その苦しみから逃れるためピンガ(=カシャッサ→サトウキビから作られる蒸留酒)漬けの日々を送っていました。2月になると衰弱は甚だしく、当時の平野を知る人は「体はブクブクで顔は赤く腫れ上がっていた」と言っていました。最後は悪性のスペイン風邪に憑りつかれ、遂に2月6日にいさの夫人、実弟の彦平、多くの友人や植民地の同士たちに見守られ、僅か34歳の波乱に満ちた人生に幕を閉じました。平野の亡骸は、翌日全移住者の悲嘆と慟哭のうちに植民地内の新墓地に手厚く埋葬されました。1923年3月15日に平野運平の墓標が同地に建立されました。平野といさの夫人の間にはジョゼー(如是)という名の男の子がいました。後年いさの夫人は、平野の実弟・棒葉彦平と再婚をしたそうです。
移民の利益を第一に考え、死に物狂いで奔走し、漸く植民を軌道に乗せたと思った矢先の突然のリーダーの死は、どれほどの衝撃を全移住者に与えたことでしょう。100年後の現在まで、平野植民地の居住者は誰ひとり「平野さん」とは呼びません。当然のように「平野先生」と偉大なる創始者のことを呼んでおられました。平野植民地100周年記念行事に出席させて頂いて、遺された方々がどれほどこの地を愛し、大切に守って来たかが分かりました。いよいよ明日から、私自身がカフェランジアにある当地を訪れた記録を書き始めさせて頂きます。  


# by beijaflorspbr | 2015-08-29 20:30 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 28日

平野植民地100周年祝賀行事参加⑤相次ぐ試練

平野植民地のお話の続きです。マラリアによって、数多くの同士を喪った平野植民地に更なる試練が次々と襲います。

《災害の連続》
1917年(大正6年)前年の分も合わせてコーヒーやミーリョ(とうもろこし)、フェイジョン豆も良く実り、豊作が予想された11月13日、一面に空を襲ったガファニョット(イナゴ)の大群が一瞬にして大切に育てた農作物を食い荒らしてしまいました。その時の蝗害(こうがい)は、線路に群がった蝗の脂で列車が動かなかったほど酷いものだったそうです。この年、平野植民地に住む80家族は僅か30家族に減っていました。
《自然災害との闘い》
蝗の被害で大きな損害を被った同植民地は、1918年(大正7年)、今年こそはと意気込み、前年以上の出来栄えと言う喜びも束の間、肝心の収穫時に雨が全く降らず、干ばつに見舞われ収穫量は半減してしまいました。その上追い打ちをかけるように、6月の大霜で伸びかけていたコーヒーが全滅しました。コーヒーの木は霜には特に弱いのです。折角大切に育てたコーヒーの樹がたった一晩で枯渇してしまいました。しかしながら、この尊い経験から、霜害に遭った場所の地図に印を付け、二度と同じ場所に植え付けはしなかったことで、それ以降霜害に遭うことは二度とありませんでした。
《平野を救った松村貞雄初代総領事の威徳》
当時平野には、地主に払う8コントスがどうしても不足していました。土地代として支払うお金を、全てマラリアの薬代キニーネや、医者代や入植者のための食料品購入に全てを使ってしまいました。平野は狂ったように金策に走り回っていましたが、それを知った松村総領事が、不足分8コントスを工面して平野を助けました。その貴重な8コントスは、松村夫人の臍繰りだったとも言われています。それから10数年の歳月が流れた入植20周年のおり、植民地に残る人たちが、日本に住む松村未亡人(松村総領事は既に死去)に、借りた8コントスに加え10コントスを返済しようとしたが、夫人は「平野植民地の今日の発展を遂げたことに、故人は無上の満足を感じていることでしょう。そのお金をお返し頂くのならば、何なりと平野植民地の公共事業にお使いくださいますよう」と返済を固辞しました。平野植民地の入植者は、松村総領事の美徳を永遠に顕彰することにし、『松村奨学金』と名付けその後の運営に生かしました。

続きます。


# by beijaflorspbr | 2015-08-28 21:09 | 移民&日系人 | Trackback | Comments(4)
2015年 08月 27日

平野植民地100周年祝賀行事参加④平野困難な時代へ…

《相次ぐマラリアの襲来》
平野植民地へ移住した文野勝馬は、ドウラード河の上に杭を立て、小屋掛けをして住み始めました。内陸地にある平野植民地では、川の傍が一番涼しい場所だったからです。やがて雨期に入り、先発隊の蒔いた米が予想以上に伸び、マンジョッカ(こちらで出来るタロイモ)・フェイジョン豆・パウミット(ヤシの芽)などに飽きていた移住者たちは、稲の生育ぶりに希望を膨らませました。その頃から真夏だと言うのに、背筋がゾクゾクしたかと思うと、体が熱くなり滝のように汗が流れるという奇病に罹る人が多くなりました。一番症状が重かった文野夫人は、1916年(大正5年)の正月を迎える直前に息を引き取りました。正月を過ぎると、病気になる人々は益々増え続け、移住者の不安は増す一方でした。その頃、病気の原因がどうやらマレッタ(マラリア)ではないか、ということが分かったものの、奥地である植民地に医者や薬は皆無でした。

《マラリアの犠牲者》
1916年になると、マラリアで亡くなる犠牲者は増える一方でした。犠牲者たちは、最初の頃こそ棺桶に入れられ葬られましたが、次第に柳行李や漬物桶に至るまで棺桶の代用としました。その後、マラリアの薬、キニーネが僅かに送られてきたものの、犠牲者の数は増すばかりでした。

当時の惨状を表す記載が残っています。
『棺を造るのに板もなく人なく、死んだ愛児を柳行李に入れて泣く泣く埋葬した。夫の死骸を妻が背負って墓地に運ぶという悲惨さ』

これらの出来事は、ブラジル移民史上最も悲惨な出来事として今に語り継がれています。
(1922年当時の平野植民地の区画割の図面が残されています)
《当時の平野運平の心情》
猛威を振るったマラリアも、5月の乾燥期に漸く下火になりましたが、マラリアの犠牲者は80人に及びました。(*犠牲者の数には諸説あり、64人とも言われています)その間も、平野は全地域の測量や地図割り、地主としての支払い交渉、移住者への激励と指導、経営事務などを懸命にこなしていきました。そんな平野も、一日に3人を葬った時は、男泣きに泣いたと言われています。平野自身もマラリアに襲われましたが、大事に至りませんでした。その頃から、苦しみから逃れるため、深酒をするようになったそうです。

漸くマラリアが沈静化し、落ち着きを取り戻したかに見える平野植民地ですが、災難はこれだけでは終わりません。明日に続きます。

★マラリアについて…熱帯から亜熱帯に広く分布する原虫感染症のこと。マラリア原虫ハマダラカによってを媒介される。マラリアを発症すると、40℃近くの高熱に襲われるものの、比較的短時間で熱は下がる。しかし三日熱マラリアの場合48時間おきに、四日熱マラリアの場合は72時間おきに繰り返し激しい熱に襲われる。脳マラリアの場合は、意識の低下、言語のもつれによる神経症状などの他、黄疸、脾臓肥大、低血糖、肺水腫などの症状が起き、死に至ることもある。


# by beijaflorspbr | 2015-08-27 23:33 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 26日

平野植民地100周年祝賀行事参加③平野運平自作農への目覚め

本当はもう少し軽く読める記事の方が書きやすい上ページビューも伸びるのですが、自身に関わる人たちのルーツを辿りたいのと、ライフワークの資料として書き残したく、移民初期のお話を続けさせて頂きます。興味がない方は遠慮なく読み飛ばしてください、とはいえこのお話しはもっともっと続くことになりますので、予めご了承くださいませ。膨大な資料の中から纏めた資料なので、抜け落ちている点も多いことは自覚しております。では平野運平さんの生涯の続きを始めます。

《平野運平 ファゼンダ・グァタパラ時代》1908年(明治41年)-1915年(大正4年)
コーヒー農園のあるファゼンダ・グァタパラでの平野の活躍ぶりは突出していました。移民たちの通訳を務めると同時に、上司である支配人ジョゼ・サルトリオからの信頼も篤く、副支配人に任命されました。平野は移民たちの利益を考え、ファゼンダ内にある売店の法外な値段の商品を買わなくても済むように、外部でまとめて安く購入し、搬入することを上司に認めさせました。他のファゼンダに配耕された移民たちが契約前に次々と紛争や逃亡を図る中で、ファゼンダ・グァタパラだけは落伍者がほとんど出ませんでした。平野は副支配人として、移民たちの利益を第一に考え信頼しました。また紛争が起きないように、不穏分子の首謀者をファゼンダから追放する措置を講じた上で、移民たちを外部と触れさせず、手紙も検閲し、ファゼンダに不利益をもたらすものは没収するという徹底ぶりでした。その結果、第一回移民88名、第二回移民233名と入植者はどんどん増え続け、一時は4~500家族にまで達し「平野王国」を形成しました。平野は、ファゼンダの仕事と兼任で、その後独立したジョゼ・サルトリオ所有のファゼンダのコーヒー40万本の植え付けと栽培を4年契約で引き受けました。これは大規模な請負農を始めた日本移民初のケースになります。
《平野植民地建設の経緯》
平野運平は、1915年(大正4年)当時の松村貞雄初代総領事と面会し、初の日本人植民地を建設するよう依頼を受けました。松村総領事は、着任以来移民の在り方をみて、どうしても日本人を土地保有者にしなければならないと思い、その先駆者として白羽の矢を立てたのが平野運平でした。
アリアンサ通信さんより画像をお借りしました)
《平野植民地の場所とその規模》
ノロエステ線バウル―を経てプレジデンテ・ペンナ駅から東北に13キロ奥(現在のカフェランジア市)へ入った原生林一帯、ドウラード川を基点として東に9キロ南北約4キロ半の土地、1,626アルケール(約6,000ヘクタール=約6,000,000km²)を購入し、1単位を25町歩(1町歩は約3,000坪)に区切り、希望者に分譲しました。当時のコーヒーコロノ(農民)4人家族ならば、毎月10町歩を楽に買うことができましたので、新天地で自立農を夢見る入植希望者は、2百数十家族に及びました。

《先発隊、現地へ》
平野運平は、1915年(大正5年)8月3日に先発隊20名の青年を現地に送り出しました。まずドウラード河の対岸地に仮小屋を作り、本部を設営しました。川に拘ったのは、飲料水確保と日本人には不可欠の稲作を強く意識してのことでした。川縁の山を切り拓き、米を蒔き付けました。一方仕事に身の入らない移民たちは、ファゼンダ・グアタパラに罰金を払い、12月までに82家族が新植民地に入植をしました。このうち2家族は、ドウラード河向こうの僅かな開墾地に小屋を建てました。この土地こそが、最初はブラジル人が、次いでスペイン人が開拓に手を染めたものの、悪性マラリアのために逃げ出した曰く付きの土地だったのです。

続きます。


# by beijaflorspbr | 2015-08-26 22:41 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 25日

平野植民地100周年祝賀行事参加②日本人ブラジル移民導入の背景と実施まで

《当時の日本政府が移民政策を奨励する背景と理由》

平野運平さんの生涯を語る前に、当時の社会情勢を語らねばなりません。1877年(明治10年)当時、西南戦争後の経済の混乱により、地方の農村が荒廃しました。人口問題と農村の危機解決策として、自国民を他国へ送出し、現地就労によって富を蓄積することを目的とした「移民政策」が実施されるようになりました。1868年(明治元年)にはハワイ移民が始まり、主にカリフォルニア州を中心とする米国本土にまで広がり多くの人々が海を渡って移民をしました。19世紀以降移民政策は本格化し、第二次世界大戦後もしばらくの間は政府も積極的に関わって実施されました。1893年(明治26年)にグァテマラ移民、1897年(明治30年)に35名がメキシコに渡り、その後も組織的移住が積極的に行われるようになりました。ところが移民会社が増大し、移民政策が積極的に実施されるほど、北米に於ける東洋人排斥による移民受け入れ反対論が増大し、1908年(明治41年)実質北米への移民は認められなくなってしまいました。次の移民先としてブラジルの他、ペルー・アルゼンチン・ボリビア・パラグアイ・チリが選ばれました。南米各国だけではなく、フィリピンへも移民が送出されました。

《日本人ブラジル移民までの背景》

当時のブラジルは、1888年(明治21年)奴隷制度廃止後のコーヒー園の下級労働力として各国移民を受け入れていました。その最大の労働力はイタリア移民でした。ところが、あまりの待遇の悪さに、イタリア本国政府が移民送出禁止令を発令します。その後の働き手として他国移民を模索していたところに、白羽の矢が立ったのが日本人でした。1907年(明治40年)11月皇国植民会社を設立した水野 龍(みずのりょう)が、サンパウロ州農務長官カルロス・ボテーリョと移民導入契約を結びます。1908年(明治40年)6月18日第一回笠戸丸移民781名を率いた水野龍がサンパウロ州サントス港に上陸します。当時の新聞記事によると、日本移民は皆礼儀正しいと絶賛されたそうです。781名の第一回移民は、サンパウロ州周辺のコーヒー農場の期間雇用農民として殖民集落に分かれ、農業に従事しました。

《平野運平、出生からブラジル渡航まで》

1886年(明治19年)3月23日、士族・棒葉健蔵の次男として静岡県小笠原郡で出生、1906年1月7日、平野家と養子縁組をする。同年3月、掛川中学校を卒業し、東京外国語大学スペイン語科に入学。1908年(明治41年)23歳だった平野は同大学を中退し、水野龍が設立した皇国植民会社の第一回日本人ブラジル移民の通訳の一人として選ばれ、シベリア経由で笠戸丸移民より1か月前にサントス港に到着しました。6月18日、サントス港で第一回笠戸丸移民を迎えました。

《笠戸丸移民の通訳5人男たち》

①加藤 順之助

②嶺 昌

③平野 運平

④大野 基尚

⑤仁平 嵩

いずれも東京外国語大学スペイン語科卒業、または中退した人たちでした。尚、当時同大学にはポルトガル語がなかったため、スペイン語科の学生が選ばれました。

《第一回笠戸丸移民 配耕地》

ドゥンモント

51家族 210名(単独18名)

フロレスタ

24家族 173名(単独3名)

カナアン

24家族 151名(単独1名)

サンマルチンニョ

27家族 101名(単独13名)

グァタパラ

23家族 88名(単独4名)

平野は6月28日、鹿児島18家族・新潟3家族・高知2家族、合計88名を引率してファゼンダ・グァタパラに入りました。

ソブラド

15家族 49名(単独1名)

《厳しい労働条件に苦しむ初期移民たち》

サンパウロ州内陸部にあったコーヒー農園での労働条件は、収穫・収入面で、移民会社の謳い文句とは大きくかけ離れた劣悪なものでした。移民はブラジルでの数年の労働の後、貯蓄をして日本への帰国を目指す出稼ぎを目的としていましたので、その期待を大きく裏切られました。ブラジルと日本との文化や習慣の違い、食習慣や住環境や医療面など、全ての点において過酷な状況下に置かれました。そんな悪条件のもと、平野は大奮闘をするのですが、そのお話は明日に続きます。



# by beijaflorspbr | 2015-08-25 23:41 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 24日

平野植民地100周年祝賀行事参加①プロローグ

1997年から女性ばかりが所属する自主勉強グループの「ブラジルを知る会」に所属するようになって、今までにラテンアメリカ史、ラテンアメリカの宗教史、ブラジル史、移民史、ブラジルの産業、コーヒーの歴史、宝石などの勉強会に参加してきましたが、取り分け強く興味を惹かれたのが、日本人のブラジル移民に関しての勉強でした。夫の両親も家族で福岡からブラジルに渡ってきた移民だったからです。何故明治時代から日本人はそんなに多くの人が海外渡航を夢見て祖国を後にしたのか、そのプロセスはどうだったのか、そして移住した後はどうやって苦難の道を歩きながら現在の「Japones Garantido(日本人は保証付き)」の称号を勝ち得たのか、移民についての勉強をすればするほど疑問点も沸き上がると同時に、明治時代から引き継がれる日本人の持つ誇りや勤勉さ、それに類まれなる辛抱強さ、賢さなどが垣間見えてきます。それを知るほどに、自身も日本人で良かった!と再認識することができました。そんな中で、移民の107年に渡る歴史の中でも特筆すべき人が「悲劇の主人公」と今に語り継がれる平野運平(ひらのうんぺい)さんでした。1886年に静岡県で出生し、1919年自らが開拓に携わった平野植民地で僅か34歳という若さで亡くなります。
今回お友達のお誘いを受けて、カフェランジアという地にある平野植民地100周年の記念式典に参加する機会を得ましたので、この機会に平野運平さんの人生と足跡を辿るところからゆっくりとお話を進めてまいりたいと思います。尚、平野運平さんに関する資料は、あちこちに現存していますので、このブログ上に書き残すものは、私自身が独自に資料を纏めたものであることをご了承くださいませ。またあまり楽しいお話ではありませんので、読み進めるのも大変かもしれません。「移民」は「棄民」と言われて祖国日本を後にした戦前16万人、戦後7万人の移住者の最初はこうだった、と言う話を明日から続けさせて頂こうと思います。


# by beijaflorspbr | 2015-08-24 23:19 | 移民&日系人 | Trackback
2015年 08月 23日

ITALY@Shopping Market Place

ある会議に参加した帰り、Market Placeというショッピングセンターに立ち寄りました。Market Placeといってもピンと来ないかもしれませんが、Morumbi Shoppingの真向かいと言った方が分かりやすいかもしれません。中にはこんな小さなアイススケートリンクがあり、皆楽しそうに滑っています。昔はMorumbi Shoppingの中に大きなアイススケートリンクや、ボーリング場まであったのが懐かしいです。というこのショッピングセンターの最上階のフードコートもジェットコースターや他の乗り物に乗ることができたんですよ。安全性に問題が生じて撤去されて今は何も残っていませんが…。子連れの家族は、この二つのショッピングを梯子すれば、ありとあらゆる娯楽を楽しむことが出来たので、良く幼い子どもたちを連れて遊びに来たものでした。
既に食事時間が過ぎていたので、簡単に食べて行くことにしました。入ったのは、Italy.このお店の本店はOscar Freireにあります。
食事時間をとうに過ぎているので、店内はガラガラ。と言うよりも、ブラジルは今大変な不景気で、飲食店の入りも随分減っていると報道していました。人々は贅沢を慎み、質素な生活に切り替えているということです。レストラン業もまた厳しい時代に突入しているのかもしれません。
まずはチリ産赤ワインでカンパイ、真っ赤なガーベラは埃をかぶっているように見えますが、ちゃんとした生花なのですよ(笑)
一品目はほうれん草入りラザーニア、大変濃厚!
二品目は海老とアスパラのパスタ、バターの香りの強い美味しい一品でした。この二皿を3人でシェアして頂きました。
ある大切な出来事の記憶を食事の記録と共に残したく、掲載させて頂きます。いつか晴れて笑顔でカンパイできる日が来ますように!!


# by beijaflorspbr | 2015-08-23 23:36 | サンパウロのレストラン | Trackback
2015年 08月 22日

いつもと同じ風景

漸く忙しくも充実したミッションが終わり3日ぶりに自宅に戻ってきました。我が家付近は一軒家ばかりの集合体(Condominio)なので、当然のことながら緑が溢れていて気持ちが良く、居ながらにして森林浴が楽しめます。
木漏れ日までいとおしい。。。
山のような洗濯も済んだので、少しはゆっくり出来るでしょうか!?皆さまも良い週末をお過ごしくださいませ!


# by beijaflorspbr | 2015-08-22 23:07 | Chacara Flora | Trackback