2017年 01月 20日

邦人の両替強盗殺人事件について思う

複数の報道の通り(時事NHK 朝日日経) 、4日前の1月16日午後2時頃、サンパウロ市南部で自動車を運転中に、バイクに乗った二人組の男に、フロントガラス越しに胸を撃たれた日本人男性が亡くなるという悲惨な事件が起こってしまいました。報道によると、旅行代理店で両替後、自動車を運転中に車の窓を開けるよう要求されたが、開けなかったことから正面から撃たれた弾が胸に的中したようです。亡くなられた男性は、40代の駐在員でしたが、所属していた会社側も「(サンパウロが)そんなに危ないところだとは聞いていない」とコメントを出されたように、危ないけれど危なくない・・・といった微妙なサンパウロの現状です。但し、最近「ある特殊犯罪」についてのみ、深刻な事件が多発しているのも事実です。この「特殊犯罪」というのは、ある特定の旅行代理店で外貨を両替した人が何人も立て続けに「二人組のバイクに乗った男」に襲われ、現金や身の回りの物を一切合切奪われるという事件です。該当の旅行代理店の名前は書きませんが、地元では誰でも知っており、身分証明書さえ提示すれば、誰でも簡単に両替出来ることから、長年重宝されてきました。16日(月)に遂に最悪の殺人事件が起こってしまったことから、日本のマスコミでも大々的に取り上げられましたが、私たち当地在住者は、これに関する事件は、在サンパウロ総領事館から度々メールやHPなどを通じて再三再四警告を受けており、皆周知していることでした。実は、私の知人が2-3年前に、同じような犯罪に巻き込まれ、その話を直接知人から聞いてから、その旅行代理店での両替所には一切近付かないようにしていました。以前は、メトロに直結して簡単に行けるため、気軽にちょっと現地通貨のREALが貯まった時などに、US$や日本円にちょこちょこ両替えに通っていましたが、警戒レベルに達してからは、一切その代理店には近付いていません。以前は、帰国の航空チケットなども一括してその代理店にお願いしていましたが、相次ぐ両替強盗事件が起こってからは、その店に近付くのも恐ろしくて止めて代理店も変えてしまいました。こんなお話をすると、これからサンパウロに来られる方は「恐ろしいところだ!」と怖がられるかもしれませんが、ある程度の防犯のルールがあるのも事実です。

話は変わりますが、サンパウロはクレジット(デビット)カードがほぼどこでも使えます。それ故、日本のように纏まった現金を持って歩く必要がほとんどありません。私自身も、夫からもらった現金が昨年からほぼ使う機会がないまま、今日に至っています。大した金額ではありませんが、防犯のために少しだけ現金を所持するようにしています。ブラジル人は貧富の区別なく、ほとんどの人がクレジットカードを所持していて、例えば街角のバールでコーヒー一杯を飲んだとしても、クレジットカードやデビットカードを使う人が多いほどのカード社会です。いつか、現金でコーヒーを飲もうとした時、「お釣りがないからカードにしてくれない?」と言われてビックリしたことがあります。僅か80円のコーヒーすらカードを使えと!?ちょっとしたカルチャーショックに陥りました。その話をすると、夫が「ブラジルはそんな国なんだよ」と。日本とは違うことを強調されました。1円のお釣りもきっちりくれる日本社会と、お釣りがないからと飴でごまかすブラジル社会。それと、長引く深刻な失業者の増加は、治安の更なる悪化に繋がっているに違いありません。医療・教育・職業・治安面の不安は、悪循環しか生み出しません。私たち在住者は、そんな過酷な中で生活をしている訳ですが、もちろん出来うる限りの注意を払いながら緊張感を持って生きています。私の意見など参考にならないかもしれませんが、思うままに挙げてみます。

◎まとまった現金や貴重品は持ち歩かない。
◎しかし防犯のためにある程度の現金は必要である。
◎お友達は大体R$200,00 =約7,200円を常に持っているそうですが。私は長年R$100,00以上は持ちません。
◎街の両替屋(旅行代理店を含む)は使わない、出入りしない。
◎両替の必要がある時は、グァルーリョス国際空港やホテル、Cambioを併設している銀行で!(割高でも我慢してください)
◎買い物や飲食はクレジットカードを活用する。VISAかMASTERはほとんどの場所で使用可。
◎クレジットカードを使って必要な金額のみキャッシングする。
◎夜間の外出には特に注意を払い、短距離でもタクシーやUber、99などのタクシーアプリを使って呼ぶ。
◎もし強盗に遭ったら自分の命を守るため、抵抗せず、犯人の要求に従う。
◎高価な貴重品は身に付けない。
◎スマートフォンは、中古でも高額で取引されているので、人前で取り出して使わないこと。
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ブラジルに住むようになって、安全はお金で買うものだと言うことを実感しています。我が家も300軒ほどの巨大コンドミニアムに住んでいますが、毎月の管理費は驚くほど高く、家計を圧迫しています。それまでして防犯しなくてはいけない生活も40年、年を取るとこんな生活も何だか疲れてきました。。。サンパウロにお住いの方、これから来られる方が、どうか怖い思いをしないようにと祈るばかりです。信じられないことに、この邦人殺人事件はブラジルのマスコミでは一切報道されていません。それだけ、殺人事件は日常茶飯事に起こっているということに尽きると思います。自分の身は自分で守る、これを肝に銘じて安全安心な生活をなさってください。私自身もですが…。


# by beijaflorspbr | 2017-01-20 21:57 | サンパウロ生活情報 | Trackback
2017年 01月 19日

吉祥寺の和食『菘(すずな)』の世界

堀江先生のお宅で午前・午後のお稽古を見学させて頂いた後は夜の部お愉しみです。若い頃から格別に可愛がって頂いていたひろ子さんご夫妻と共に、吉祥寺の「菘(すずな)」にお伺いしました。菘は、ひろ子さんのご長男が店主で切り盛りしている和食店です。そのお店は、吉祥寺から徒歩7-8分のところに静かに佇んでいました。住宅街のど真ん中にあるのですね。初めてなので興味津々…。
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「菘」の字は、旦那さまが書いてくださったそうで、既に馴染みのある素敵な字体です!おじいちゃまからお孫さんへの餞、何と素敵なことでしょう。
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ランチコースもお手頃なお値段です。
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店内は落ち着いた雰囲気です。
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こんなスペースもあるので、あらゆる会合や会食に使えそうですね。
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楽しそうにお仕事をされている店主の道夫くん、生き生きしていてステキー☆子どもの頃から何度も会っている彼が、こうして板場に立っているのを見て、感無量でした。
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笑顔を絶やさない彼が生み出すお料理は如何に!?あーもう、楽しみで仕方がありません。あんなに堀江家で味見を繰り返したのに、お腹がペコペコでした(笑)
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3人で久々のカンパイー☆ひろ子さんは元々お酒が飲めないので、ご主人の素直さんと二人でグビグビと遠慮なく頂きました(^^)/
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次はお料理をご紹介させて頂きます。


# by beijaflorspbr | 2017-01-19 22:14 | 日本の美味しいもの | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 18日

日本日記@堀江泰子先生のお宅へ②

堀江泰子先生のお宅、午後の部です(はい、長居しております←笑)さわちゃんの専門分野である、韓国料理のお教室が始まりました。堀江先生のお料理教室の基本は、昔から下ごしらえを丁寧にすること、きっちり分量を測ることでした。もやしの髭も、面倒くさいけど丁寧に取ってね!とさわこ先生から指示が飛びます。
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予め味を染み込ませて置いたお肉なども揚げ、材料を合わせて…
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仕上げにかかります。
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ちぢみはふわっと焼くのよ~♪
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出来上がり!!美味しそうな香りがふわ~~っと広がります。
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ユッケジャンもさわちゃんが丁寧に仕上げてくださいました。
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おいしぃ~~~~~~~(^^)/
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デザートは何と、カルピスのシャーベットでスッキリサッパリ。。。
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この後の楽しみもあるのに、またお腹いっぱい食べちゃった。。。まずいぞ。エルの診療所用に、さわちゃんの離乳食の本を頂きました。
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お稽古でバタバタしている中、101歳の旦那さまは、ひたすら書き物をされておられました。ひとつひとつ丁寧に辞書を引きながら。。。旦那さまは、喪中はがき一通一通にも必ずお悔やみのお返事を出されるそうです。こういったところからも、人生の勉強をさせて頂いています。
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「堀江家は私の原点」と胸を張って言えるのは、こうした旦那さまの変わらぬものに向き合う姿勢と、泰子先生が長年ご苦労をされて研究して来られた堀江家の味や、故郷宮崎の郷土食を子・孫に忠実に伝えて来られたお姿を間近に見せて頂いているからだと思います。既に両親は亡くなっているので、お二人から学ばせて頂くことが多い堀江家は、私にとっての宝物でもあります。これからも宜しくお願いいたします。

# by beijaflorspbr | 2017-01-18 20:40 | 人生 | Trackback
2017年 01月 17日

日本日記@堀江泰子先生のお宅へ

もう一度日本日記に戻ります。この日は、東京のお友達のお宅から成城の堀江先生のお宅に向かいました。先生とは18歳の時にご縁を頂き、現在まで変わらず気にかけて頂いており、ずっとお付き合いが続いています。もし日本にずっといられるのであれば、堀江家の年中行事である旦那さまや先生のお誕生日のお祝いや、ひな祭り、餅つきやお節料理などを頂く機会があったのにと思うと残念でなりません。それ故、帰国した時は必ず何を置いてでも訪問するように心がけています。堀江先生とのご縁を書いた「スタートは18歳から」で詳しくいきさつを書いたように、先生とのご縁は既に45年前から始まっていました。旦那さま101歳、泰子先生94歳の冬…。成城の街並みは昔とちっとも変わりません。
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先生宅に近付くと、とっても賑やかな声が聞こえてきました。この日はお稽古日で、特別にクリスマスメニューの日でした。たくさんの生徒さんが一生懸命メモを取りながらお料理をされていましたが、私は久しぶりにお目にかかる旦那さまや先生と積もり積もったお話をするのに夢中になっていました。先生は私のことが良く分かって、「良く来てくれたわねえ~」とか「いつまでも頭しっかり元気でいなくちゃ」と自分自身に気合を入れておられる姿に、ちょっと安心しました。ご高齢のお二人を拝見していると、しんどいとか年取ったなあ~なんて決して弱音を吐けません。お料理が出来上がって、旦那様、先生と共に食卓に着かせて頂きました。生徒さんも、「ああ、ブラジルのハチドリさんですね!」なんて、結構知名度が上がっているのには驚きました。クリスマスのメニューだけあって、ビックリするくらい豪華な一品一品、もちろん肝心なレシピも頂きました。後でおさらいをしなくてはいけませんね。
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泰子先生の食事介助をするのに、「口に入っているのに入れない!」なんて叱られながら(笑)楽しく試食を終えました。いつも感心するのは盛り付けの美しさと味の良さ、家庭料理は日常的に口に入るものなので美味しくなくては…という泰子先生のお考えを、ひろ子先生、さわちゃんがしっかりと引き継いでいます。
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皆が試食している横で、さわちゃん(料理研究家・ほりえさわこさん)がケーキの仕上げを黙々としていました。
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最終的にお星さまの形に仕上がって、真ん中はヨーグルトにフルーツ
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しっとりしていて本当に美味しいケーキでした。泰子先生もたくさん召し上がられて、ホッとしました。午前の部の生徒さんがお帰りになるのと入れ替わりに、午後からの生徒さんが来られて益々賑やかに…。何度もお邪魔しているので、何度もお目にかかったことのあるベテラン生徒さんもおられました。続きます。

# by beijaflorspbr | 2017-01-17 23:11 | 人生 | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 16日

大好きなH叔父さん、さようなら

まだ風邪が治らず、寝たり起きたりを繰り返していた頃、兄貴からのメールで、若い頃からお世話になったH叔父の訃報を知りました。H叔父さんは、父の妹の旦那さま。若い頃から豪快で楽しくて、周りを明るく照らし続ける太陽のような人でした。見た目がちょっとその筋の人!?と思われるような叔父でしたが、仕事も良く出来、顔も広くて、一緒に歩いているとあちこちから挨拶されるような人でした。ああ、H叔父さんって人望が厚いんだなあ~と感心しきりでした。叔父さんに特にお世話になったのは、東京で貧乏学生生活を送っていた頃でした。当時池袋にいた叔父さん叔母さんを頼って、お腹を空かせて行くと、いつもたらふくご飯を食べさせてくれ、いくらかのお小遣いも握らせてくれました。不思議なことに、叔父さん叔母さんの初めての子どもが生まれた時も、私が立ち会っていました。一度叔父さんが「おまえに可愛い洋服を買ってやる!」と張り切って洋品店に連れて行って選んでくれた服は、あまりにも派手すぎて到底着ることが出来ませんでした。叔父さん自身がすごく派手で、オウムのようなカラフルなポロシャツを着ていたこともあり、一時「オウムおじさん」とニックネームを付けて呼んでいたこともありました。何年頃だったか、叔母さんが深刻な病気を患って入院した時、病院の送り迎えを担当していた私に、「〇〇子(私の名前)、俺の人生でこんなに悲しかったことはないよ、H子(叔母)に先立たれたら俺は到底生きてはいけないと思う」と初めて弱音を吐く叔父さんの絶望的な姿を目にしました。その後、叔母さんは奇跡的に全快し元気になった頃、元の元気な姿の叔父さんに逆戻りしていました。2013年7月、博多に住んでいる叔父さん夫婦がお墓参りをしに大阪に来られた時、丁度帰国中の兄夫婦と一緒にデパートのちょっとお洒落なお鮨屋さんでご馳走してくださったことがあります。その時に「どうもねえ、深刻な病気が見つかって流石の俺もいつまで生きられるか分からなくなってきた」と珍しく弱気な叔父さんの姿に接しました。それでも、常に明るく楽しそうな叔父さんは、昔と変わらない私の知っている豪快な叔父さんでした。昨年の11月末、我が家で兄貴たちと食事会をしている時に、H叔母さんに電話をしてみると「(叔父さんは)入院しているけど、結構元気で年賀状を出せ、宝くじは買ったかと何かと煩いのよ!」と笑っていました。最後まで叔父さんらしく、きっと口煩くて笑っていたのでしょうね。H叔父さんの葬儀は晩年を過ごした博多で行われましたが、今を時めく有名人からの花輪がズラーっと並んでいたのも、叔父さんの人となりを表しているものと思いました。特にある分野ではかなり有名な叔父さんは、ずっと多くの人から慕われ尊敬されていました。たくさんの人を救ってきたH叔父さん、もうあの濁声は聞けないのですね、そう思うと悲しいけれど、今は痛みや苦しみのない平和な世界へと旅立だれたのだと思います。叔父さんのご冥福を心よりお祈りしています。碌に恩返しも出来ず、申し訳ありませんでした。叔父さんにして頂いた親切を、誰かに還元できるようにいたしますね。叔父さんの人生は実にあっぱれでした!!
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# by beijaflorspbr | 2017-01-16 22:00 | 人生 | Trackback
2017年 01月 15日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・④最後

JALサンパウロ線の想い出 激動の世界情勢、そしてJAL破たん~サンパウロ線運休までの流れ
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1989年、出入国改正法により、日系三世とその家族は合法的に日本で仕事が出来るようになりました。日本の労働力不足を補うために、たくさんの日系ブラジル人の方々が、海を渡られました。この頃からだったでしょうか。JALの直行便の予約が満席のため、なかなか取れなくなったのは。当時週3便をジャンボ機で飛ばしていたのにも関わらず、毎便満席で飛び立っていました。9.11事件前は、ブラジル人はパスポート番号を事前登録することで、米国のビザが要らないという特別措置が取られていました。ところが、あの2001年9月の同時多発テロ事件以降、ブラジル人にも米国ビザ取得が義務付けられると同時に、ハードルが高くなり、次第に米国ビザ取得が困難なブラジル人は、JALの米国経由を敬遠するようになってきました。その頃から、欧州経由、カナダ経由、中東経由にどんどん日系人が回ってしまい、一時不思議なほど空席が目立っていた時期もありました。2002年にはSARS(重症急性呼吸器症候群)の大流行、2003年イラク戦争勃発2008年には、世界中を揺るがしたリーマンショックで、出稼ぎの方々の大挙引き揚げという最大の逆風が吹き荒れました。中には、日本政府の資金援助で帰国する人たちも大勢いて、その頃のサンパウロ行き待合室の暗い雰囲気は今でもはっきり思い出すことが出来ます。2009年メキシコで新型インフルエンザの大流行もあり、航空機を使って移動すること自体が不安になるような激動の世界規模の事件が次々に勃発する度に、搭乗客が増えたり減ったりして不安定な時期もありました。そうこうしているうちに、母体の日本航空が2010年1月には会社更生法の適応を申請し、破たんに追い込まれました。JAL再生に向けて、金融機関による債権放棄、支援機構からの公的資金注入、採算の悪い大型機の売却、大幅なリストラに加え、不採算路線の切り捨ての中に、私たちが最も必要としていたサンパウロ線が含まれていました。その時の落胆ぶりはこちらに書かせて頂いております。この発表があった時、自分たちも一緒に切り捨てられているような気がして、何とも悲しくて無性に寂しかったことを覚えています。私たち、サンパウロ在住者はいったいどうしたら良いんだろう?途方に暮れました。私たちは黙って手をこまねいていたわけではありません。日系機関が多くの署名運動をしたり、色々な方面で働きかけましたが、現在に至るまで再開には至っておりません。長年当たり前のような存在だったJALの直行便が無くなってからは、良い機会だとあちこち経由して冒険してみました。
※コースをクリックして頂くと、それぞれの搭乗記にリンクできます!

こうして放浪を続けた結果、元の鞘のJAL・ワンワールドを繋ぐルートに返り咲きました。
〇サンパウロ~ニューヨーク(AA)~成田~伊丹(JAL)
〇サンパウロ~ロスアンゼルス(AA)~関西(JAL)

でも…なんか違う。いつもいつも感じる違和感は、昔の利便性にすっかり慣れきってしまったからかもしれませんし、長年親しんだJALとは何故か微妙な違和感を感じ続けてきました。JALの直行便時代の利点を挙げたらきりがありませんが
①荷物は最終目的地までスルー(※現在は違いますよ!)
②ずっと同じ飛行機に乗ることが出来る安心感
③地上・機内全てのスタッフがとても親切
④いざという時の対応に優れている点
⑤JLGCMとしてのステータスが使える
⑥マイルが良く貯まる
等々利点を挙げたらきりがありませんが、今も世界の航空ランキングの上位に挙げられるようなJALは、私たちにとってもどこまでも信頼できる翼に違いありません。
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(グァルーリョス国際空港に到着したばかりのJALのジャンボ機、これが最後の雄姿です)

こういった点から、出来れば再びJALの「鶴丸」の雄姿を、サンパウロ・グァルーリョス空港で観られたら、いつ死んでもいいかな?と思っています。そのうちに、このブログ内で声掛けがありました署名のためのウェブサイトを立ち上げるかもしれませんが、その際には是非ご協力をお願いいたします。サンパウロにお住いの方、そして周辺の都市や他の南米各国にお住いの方、日ー伯間のご出張の多い方、どうか署名にご協力をお願いいたします。長々と独り言ばかりで申し訳ございません。今更ですが、JALサンパウロ線の復活を強く願いつつ、長い長い独り言を終わらせて頂きます。

ずっとこうしたことを書いているうちに、風邪も良くなりつつあり、来週辺りからは外出も出来そうです。暗いトンネルから漸く抜け出せたような良い気分ですが、まだ咳が続いていますので、当分用心をしながら静かに暮らしたいと思っています。お読みいただき(お読みいただいていないかも!?)ありがとうございました。


# by beijaflorspbr | 2017-01-15 22:08 | 飛行機 | Trackback | Comments(0)
2017年 01月 14日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・③

JALサンパウロ線の想い出 移民の方々と
日本人移民100周年記念行事の一環として実施された「あしあとプロジェクト」(1908年から100年間にブラジルに渡った方々の乗船名簿をデジタル化した)に4年間ボランティアとして参加させて頂いた際、分かりやすく判別するために、戦前を『移民』戦後を『移住者』としようと決まりましたので、この項に書くのは『移民』された方々です。戦前ブラジルに渡った移民の数は16万人と言われています。戦後移住者が約7万人なので、如何に戦前に一部国策とは言え、家族単位でブラジルに渡って来られた方々が多かったかが分かります。乗船名簿をPCに入力する段階で、如何にたくさんの家族が意を決してブラジルに来られたかがデータを通してはっきりと見えました。戦前の移民の方々のほとんどが奥地にある農村地帯へ入植し、農業に携わりました。そんな皆さまが、漸く日本に帰国することが出来るようになるまでには、どれほどのご苦労があったかと偲ばれました。そんな意味でも、JALの翼は、長年ご苦労された移民の方々にとっての「永遠の夢と憧れ」と言っても過言ではないと思います。何人かの老移民の方々に、インタビューしたと言うわけではありませんが、自然にお話させて頂くうちに、印象に残ったお話を思い出すままに書かせて頂きます。

《70代女性》
たまたまお隣の座席に座ったご年配の女性と、長いフライトの間に世間話をしました。彼女のお話によると、「移住したのは子どもの時、12歳か13歳で学校を止めてブラジルに一家を挙げて移民することになった。両親とたくさんの兄弟がいて、皆誰もが不安だった。実際に入った(入植)したのは、大きなコーヒー園。日本移民だけではなく、ガイジン(他国からの移民)もいた。パトロン(農場主)は、良い人で、私たち子どもには優しくて、良くバーラ(飴)をくれた。12歳以上になると、エンシャーダ(畑を耕すための鍬)を持って、鐘の音と共に大人と共に働きに出なくてはいけないのが辛かった。勉強はしたくても全然できなかったけれど、それだけが残念。苦労してやっと結婚した時に、子どもたちには十分に教育を施したいので、一家挙げて思い切ってサンパウロに出てきた。幸い子どもが成長して、私を故郷に送り出してくれた。移民して初めての訪日(日本人移民の方は良くこの言い方をした)だから、とても楽しみ。故郷には親戚がたくさんいる。ニッポンがどんなに変わっているか、楽しみで仕方がない」

《80代男性》
通路を挟んで話をするようになったおじいちゃんからは、衝撃的な話を聞きました。「戦争が終わったじゃろ、俺たちは日本が負けても、日本政府が船で俺たち日本人移民を迎えに来てくれるという話が奥地で広がって、持っていた土地や家財道具を全部処分してサントス港に集結したんだ。何千何万人がおったじゃろか。でもなあ、何日待ってもニッポンの船なんぞ迎えに来やせん。デマだと分かった時は、皆でオイオイ泣いたもんだ。農作業も辛かったけど、あんなに悲しかったことはなかった。これj本当の話なんだよ」・・・言葉もありませんでした。今のように極端に情報の少ない戦後、しかも情報統制から、日本はもちろん外国のニュースなど全く入らなかった時代に、誰が何故こんな出鱈目なデマを流して、多くの移民の方々を泣かせたのか・・・・。この時ばかりは絶句しました。しかしこの話には続きがあります。(前出のおじいちゃん)「でもなあ、あの時は家族全員で何日も悲嘆して泣いたけど、おsれでもブラジルで生きていかにゃならん。それからは一生懸命汗水流して働いたよ。辛かったけど、百姓は百姓しかでけん。その後畑も買い戻して何とか生きてきたんよ。今はブラジルに来て良かったと思うとる。」お話を聞いているうちに涙が溢れて困りました。

JAL直行便に乗る方々には長い人生がギュッと凝縮しているように思いました。話を伺っているうちに、こちらも一緒に涙したり考えさせられたりし、改めて自分が置かれた立場が如何に恵まれていたのかが分かりました。それと、移民の方々は、ご苦労が長かったせいか、椅子を倒したりひじ掛けに肘をかけたり姿勢を崩したりせず、ピンと背筋を伸ばして座っておられました。私がお節介で「椅子が倒れますよ、楽ですよ!」と言って倒してあげようと思ったのですが、「このままで大丈夫!」と仰っていました。成田空港に飛行機が近付くと、静かに涙を流す移民の方も多くおられました。いつもいつもこのようにドラマチックな旅が繰り広げられていました。今度はどんな方と出会えるのだろう?そんなことも楽しみなJALサンパウロ直行便でした。
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# by beijaflorspbr | 2017-01-14 22:15 | 飛行機 | Trackback
2017年 01月 13日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・②

前の文章随分長いですねえ。でも書き始めてしまったので続けます。

④JALサンパウロ線の想い出 両親と
ある時は子どもを連れて、ある時は両親に付き添って日本とブラジルを往復したこともありました。今良く思い出すのが、亡き両親のことです。子どもや孫会いたさに約30時間もかけて来てくれた両親、家が変わるごとに見に来てくれました。若い頃はエコノミークラスで頑張って来てくれましたが、年老いた頃は流石に「しんどいから良いクラスにして…」と言って弱音を吐くようになりました。その頃から、私も両親に合わせてアップグレード券などを使ってお付き合いさせてもらいました。流石にビジネスクラスの乗り心地とサービスは抜群に良くて、「慣れたら怖いなあ~」などと自分を律していました。父はお酒が大好きな人だったので、乗ったらまずお酒、食事の時もお替り、そして…エンドレスに飲むので、しっかり見張っておく必要があり、疲れました。時には「お客さま、機内では酔いが回りやすいので、大丈夫ですか?」などとやんわり言われてしまい、ちょっとは反省するもののまた飲んで・・・の繰り返し。飲むと当然トイレに行く回数も増えますので、フラフラする父を支えながらトイレへ…という修行のような時間を過ごしているうちに目的地に到着しました。でも機内の父は本当に可愛くて、CAさんたちからも親切にしてもらっていました。人を惹きつける魅力のある父でした。母はというと、どこまでも父に従う従順な妻でしたが、あまり父がやんちゃをすると怖い顔で睨み「お父さん、良い加減にしないと。。。」と一喝していました。母は旅の前に、子どもや孫の喜びそうなものをたくさん買って、スーツケースをぎゅうぎゅうにするほど、家族思いでした。今となってはあのおおらかさ、懐の深さは並みの人ではなかったな、と思います。とにかく愛情深くて素晴らしい両親に恵まれました。一度、二人っきりで帰国しなくてはいけなくなった時、「ねえねえ、〇〇ちゃん(私の名前)日本でさあ、松茸ごはん食べたくない?」と秋の味覚に釣られ、結局付き添って帰国することにしました。二人での長旅に自信が持てなかったようで、その時の帰国ほど両親の愛を感じたことはありませんでした。日本滞在期間はたった1週間でしたが、毎日生活の立ち上げや買い物や家の整理整頓に没頭し、両親からとても感謝されました。もうあんな時間は二度とないと思うと、たまらなく愛しくて懐かしくて泣きそうな自分がいます。JALの旅と両親がリンクした時、そこにはいつも二人の笑顔が浮かんでくるのでした。ありがとう、おとうさん、おかあさん。
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# by beijaflorspbr | 2017-01-13 23:56 | 飛行機 | Trackback
2017年 01月 12日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・①

前の項、独り言にしてはかなり長かったかなあ?と反省しきり。興味のない方にとっては苦痛な長文ですね。いつまで続くのかは分かりませんが、自分自身も体調が未だ思わしくなく、当分外出禁止ですので、もうちょっと呟きは続きそうです。では、2010年9月まで元気に成田とサンパウロの空を飛んでいたJALサンパウロ直行便についての思い出話を家族の想い出と共に語らせて頂きます。

③JALサンパウロ線 サンパウロ→ニューヨークまで
とにかく間にトランジットが入るとしても、合計28時間超えのロングフライトです。タイムテーブルとしては、深夜にサンパウロ・グァルーリョス空港を出発し、夜間飛行を経てニューヨークJFK空港に翌朝到着。約3時間のトランジットを経て同じ飛行機に再搭乗をしました。ニューヨークに到着した搭乗客が一斉に降機し、入国審査場を通り再出国手続きや買い物などをしている間に、サンパウロから一生懸命飛んできた飛行機は、給油や食事の搭載、機材メンテナンスや清掃を行います。サンパウロで預けた大きな手荷物は、もちろんピックアップせず、預けっぱなしですので、この点が一番利点だったように思います。乗客の把握や飛行機のメンテナンスは、次の搭乗時刻までにきっちりと完璧に行われました。この何十年もの間大きく遅れたのは燃料タンクの故障、ただ1回だけでした。今でも定時発着率の高い日本航空は、昔からかなり優秀で安心感がありました。特に親族の誰かの体調不良で緊急に日本に駆け付けなくてはいけない時などには、本当に助かりました。父の場合は、亡くなってから知らせが来たため、予めパリ在住だった兄が帰国をして葬儀の日程を決めました。それは私の帰国を待って通夜・告別式を行うと言うものだったため、時間が遅れると予定が全て狂ってしまいます。そんな点では、JALの直行便が大いに助けになってくれました。ついでに言うと、父の逝去の報に伴い、直ぐに旅行代理店に駆け付けると、即座に帰国のための座席を抑えてくださいました。1995年の阪神淡路大震災の際も、親族が被災されたご家族が飛び乗って帰国したのもこのJALの飛行機でした。緊急時には適切かつ誠実に対応してくださるのも、信頼の翼ならではと思いました。もちろん私の乗った便は、予定通り成田に到着し、大阪までもう一度飛んで迎えの車で無事に父との対面を果たすことが出来ました。私と同じような事情を抱えた人は山ほどおられ、「〇〇さんのお父様が急変されたらしい」とか「××さんのお母様が息を引き取られたそうよ」といって飛行機に飛び乗ったという話を良く聞きました。

さて、話が大きく逸れてしまいました。サンパウロ線に乗る時の話に戻ります。サンパウロ線は長旅でしたから、ある程度の「装備=手荷物」も必要ですので、ほとんどの人が大荷物を担いで乗り込んできます。ブラジル人や日系人は枕まで持ちこむ人がいるのは既に見慣れた光景ですが…。これに対しては、JALの職員が飛行機とロビーとを結ぶボーディングブリッジにたくさん待機していて、搭乗客の荷物に目を光らせて大量に荷物を持ち込もうとする人のチェックをしていました。今私自身が苦しんでいる、アメリカン航空などで、異常に手荷物の多い搭乗客が荷物収納棚を全て独占するという悲劇は、JAL直行便ではほぼ起こりませんでした。たまに常識外れの大きなキャリーを運び込もうとする人には、入り口で客室乗務員さんが「そのお荷物は棚に収納しきれませんので、こちらでお預かりさせて頂きます」と根気良く説明していました。また各座席にもちゃんと乗務員の方が待機して、必要とあらば荷物の収納もお手伝いしてくださいました。我が家は基本的に一人1個ずつ、私はハンドキャリー1個に小さめの肩掛けバッグ1個たまにお菓子の入った紙袋、子どもたちはそれぞれリュックサック1個ずつにお菓子やおもちゃを詰め放題にして…(笑)全ての搭乗客が座席に納まると、何度も何度も地上職員が搭乗客の数を数えに来ます。その間に、子ども連れの人にはおもちゃや絵本が配られます。機内には、日本の新聞や週刊誌の他、ブラジルのVejaなどの雑誌やO Estado de Sao Pauloなどのブラジルの新聞も搭載されていました。今はエコノミークラスに新聞サービスはありませんが、当時はエコノミークラスでも新聞や雑誌などを配ってくださいました。飛行機が飛び立つ頃には、子どもも親もくたびれ果てて、うっかりすると爆睡中に離陸してしまった、などということは何度もありました。ゴーゴーという煩いエンジン音と、食事の用意をするカチャカチャした音で目が覚める始末。案外子どもたちの方が元気でテーブルを出して食事を待っていた、なんていうこともありましたっけ。食事は子どもが小さいうちはチャイルドミールをお願いしていましたが、そのうち拘らなくなり大人と同じものを好き嫌いなく食べるようになりました。お腹が空いた時のために、必ず非常食は常備していました。子どもたちが大きくなってからも、その癖が抜けず、食べ物を荷物に入れる癖は長い間続いたように思います。あの頃が一番楽しいフライトでした。小さい子どもをただの一度も泣かせることなく、24時間を乗り切ったというのは、私のささやかな自慢です。そうこうしても、サンパウロからニューヨークは約9時間しかかからないので、あっという間です。ぐっすり眠って起きたらニューヨークだったといった感じでしょうか。JALでは到着2時間半前に機内の電気が一斉に点灯して、起こされた後、朝食が配られます。子どもたちは、この朝食も美味しそうに良く食べてくれました。大人の真似をしてトマトジュースをお願いしてはゴクゴク美味しそうに飲んでいました。着陸までにパジャマを洋服に着替えて、いつでも降機できるように用意します。トイレにはなるべく並ばないように、食事が終わったか終わらないかくらいで済ませるようにしていました。身体が小さいので、隙間を上手に抜けてトイレまで走って行っていました。大きなジャンボ機は、子どもたちの運動場のように感じることもありました。楽しそうに一回りして帰って来た子どの楽しそうな顔を今でもはっきりと思い出すことが出来ます。子どもたちも、何度も往復していううちに要領を掴み、上手に行動できるようになってきました。そんな姿を見て、次第に大人になっていくプロセスも見守ることが出来ました。一人で旅をするようになってからは、気が楽な分、大きな忘れ物をしたような気持ちになったものです。こんなことを書いていると、もう大きくなった子どもたちに無性に会いたくなって仕方がありません。私はそれだけ子どもに依存する母親だったのかもしれません。面倒を見ると言いながら、見られていたのかな?なんて今ではそう疑っています(笑)機内でCAさんたちに一番可愛がられ人気があったのは、末っ子のムスコでした。私がそろそろ休みたいなと思うと、スーッとCAさん来られて「しばらく〇〇くんをお預かりさせて頂いても宜しいですか?」と連れて行ってくださいました。30分でも随分熟睡できたものでした。たくさんの親切な方々に支えられたフライトこそ、このサンパウロ線だったのでした。
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今日も思い切り長くなってしまいましたので、また明日。


# by beijaflorspbr | 2017-01-12 23:10 | 飛行機 | Trackback
2017年 01月 11日

JALサンパウロ線直行便の再開を願って・・・プロローグ

最近あるグループに入れて頂きました。私が大好きなJALの飛行機やその他JALに関する情報を交換し合うグループで、非公開というのも気に入っています。まずは管理人さんに承認して頂き、挨拶がてら書き込みをさせて頂いているうちに、今は運休となったJALサンパウロ線に関して思い出したことがたくさんありましたので、これも備忘録として加えさせて頂こうかと思います。飛行機に興味のない方すみません。

①JALサンパウロ線の経路や使用機材について
1978年くらいから試験的にJALが南米と日本を結び始めたと記憶しているのですが、最初はDC10という小型機でした。座席は3-3の配列で、今のグァルーリョス国際空港ではなく、サンパウロ市からは100キロ離れたカンピーナス市のヴィラコッポス国際空港から発着していました。この飛行機に乗ろうと思うと、かなり早くから自宅を出発して夜中に帰宅すると言う大変な苦労を伴うものでした。1985年頃には、最新鋭のジャンボ機Boeing747-400が投入されるようになり、一気に大量輸送が実現しました。サンパウロ線が運休した2010年9月まではこのジャンボ機を変わらず飛ばし続けていました。途中リオのガレオン(=アントニオカルロスジョビン)国際空港を発着地としていた時期もあったように記憶しています。サンパウロからは市内専用のコンゴニャス空港から小型機でリオのガレオン空港まで飛び、JALの大型機に乗り換えて米国経由で帰国していました。最終的には、サンパウロ・グァルーリョス空港ーニューヨークJFK空港ー成田国際空港が定着していました。米国の経由地は、かなり長い間、ロスアンゼルス国際空港でしたので、私も2-3回はトランジットでロスに降り立ったこともありました。9.11事件からは、毎回米国への入国と通関義務が生じ、入国管理場の混雑の影響でしばしば出発便に遅延が発生したこともありました。9.11事件より随分前には、同じ飛行機で最終目的地まで向かうためか、貴重品以外は全部機内に置いていって良いことになっており、子連れの私にはとても楽でした。但し手荷物は全て棚へ収納しなくてはいけませんでしたが、今ではとても信じられない夢のようなお話です。トランジットカードを受け取って、専用の待合室で待つのも結構楽しかった記憶があります。小さな売店で子どもたちが欲しがるものを色々買ってあげたり、亀の置物で遊んだり、あまり広くないトランジットエリアを走り回ったりしているうちに、待ち時間はあっと言う間に過ぎました。空港の関係で、一時はサーカス小屋のようなトランジットスペースで待ったこともありました。あれはLAXだったかなあ?トランジットの際、一度息子が遊びに夢中でお漏らしをしてしまい、着替えを機内に置き忘れたため、大きなTシャツを買って着せた覚えがあります。

②JALサンパウロ線に乗る人たち
時代の流れとともに、搭乗客も変化を遂げたように思いますが、中心となったのは、日本企業の駐在員とその家族と出張者、移民や移住でブラジルに来られた方々と家族、そして私たちのような現地在住者とその家族、日系人とその家族で、それに加え少数のブラジル人や、アジア系の方々も乗っておられました。1989年の出入国管理法改正により、一気に出稼ぎの流れが勢いを増し、出稼ぎを目的として、片道チケットで乗る人たちが多くなったのも大変革でした。空港にスーツケースを持って行き、空席待ちをかけて待機している人も長い行列を作っていましたが、大体は満席で毎便飛び立っていた記憶があります。後に、米国の入国管理が義務付けられた後の日系人は、ビザ取得の難しい米国経由を避け、欧州や中東経由で日本へ移動することが多くなったようです。また在住者の日本在住の家族や親戚の呼び寄せも多く、我が家も呼び寄せチケットで両親にブラジルまで来てもらっていました。私が最高人数で乗った数は両親・私・子ども3人の6名でしたが、3人の子どもたちが二重国籍なので、パスポートが合計9冊という添乗員並みのボリュームで大変でした。この直行便には、ブラジル国内だけではなく、他の南米各国からの乗り継ぎ客も大変多く、いつかアルゼンチン在住の知人3人が真後ろの席に座っていた時は、お互いに笑ってしまいました。誰もが長い間故郷である日本を想い、日本に憧れて、「乗ったそこから日本」を体感したくて日本航空を選んで乗ったのだと思います。当時は、子どもたちの学校の関係もあり、今のように季節を選んで帰国すると言うことは許されませんでしたし、他にもVARIGブラジル航空など直行便を飛ばしている会社もありましたので、選択肢は色々でした。「今度は何で帰るの?」が我々の挨拶代わりでしたが、当時我が家もVARIGや旅行代理店に伝手があったため、たまには浮気をしてVARIGの格安航空券で帰国したこともありました。チェックインの際に、良く子どもの同級生や家族に会ったり、知り合いや友達にも会いました。さながら学校がそのまま移動してきたような騒ぎとなることもありました。当然春・夏・冬の休み前が大変混み合い、その時期に座席を抑えるのがとても難しくなってしまいました。ブラジルはサッカー大国ですから、たまにはブラジルの有名サッカー選手が団体で乗っていて、運が良ければそれに遭遇することもありました。当時サッカー少年だった息子が、選手の輪の中に入って喜んでいたので「なんていう名前の選手?」と訊くと「知らない、でもテレビでは観たことある」なんていい加減な答え方をしていましたっけ。トヨタカップに行くサンパウロFCの選手たちでしたが、名前を知らないとは!!本当にたまにですが、エコノミーからビジネスクラスにインボラアップグレードをしてくださることもありました。見送りの家族が「どうだった?」と訊かれるまでもなく、顔で分かろうと言うものです。その他、サンパウロ線は長距離のため、たくさんマイルも貯まるので、マイルやアップグレード券を使って、この最長路線では結構贅沢をさせてもらった想い出がありました。家族と過ごした貴重な時間を今目を瞑っても鮮明に思い出すことが出来ます。昔は喫煙席も設けられており、父が愛煙家だったため、それが嫌でたまらなかったものです。一つ思い出すともう一つ…想い出の引き出しがどれだけあるかはわかりませんが、しばらく語らせてくださいませ。
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・・・昔の思い出話をするとキリがありませんが、またこの続きは明日書かせて頂きます。年を取ったのかなあ?昔が懐かしい。。。


# by beijaflorspbr | 2017-01-11 23:38 | 飛行機 | Trackback | Comments(8)